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外見と環境を変える。

 別段、男に限らないが、男性が内向的な悩み方をするのは世界との 社会とのチューンナップの手段を得てしてしない傾向があるからだ。 女の子はそれこそ、思春期の頃から、お化粧したり、ピアスを はめてみたり、髪を染めてみたり、お洒落に目覚めてみたりして、 外見を変える事によって世界との調和、社会との調和をしようと する。心ではなく、外見や体を変える事によって、調和する能力 に長けている。ここでいう体を変えるというのは、それは試行錯誤 して、の立ち回るような苦しみをすることもあるが、それでも 調和していく。つまり、リストカットをしてみたり、売春して みたり、プチ整形してみたり・・・ホントあらゆることをして、 世界との社会との調和をはかる。  当然全ての女性がそうとは限らないが、この点には学ぶべき点が 多い。自己改造セミナーなどに参加して自分の考えや心を変えようと するよりも自分の外見を変えるのだ。日本にいる自分と南国にいる 自分が全く違う自分になってることもよく分かるはずだ。 ウチ弁慶、いや、今ではネット弁慶といって、家の中やネットの 中の自分と外の自分は全く違うものであることはよく経験しているはずだ。 だから、心というものは変えようとして変えるのではなく、外部の 環境によって変わるものと考える。その方が楽だからね。 だから一度も髪を染めたことがない人は染めてみるだけで、 世界や社会と調和していくのが分かるだろう。 染めるだけでもだいぶ違う。さらに化粧すれば・・・ 男性は難しいかぁ。でも一度やってみるといいかも。 試しに自分もやってみたが、全く外見が変わるだけでこうも内面が 変わるということに不思議さを覚える。  自分のスタンスは内面を変革しようという無理難題より、とにかく ファッションなどで外見を変え、そして自分が生き生きできる環境下 に自分を置いてあげる知恵が大事だと考える。外見や環境が変わるだけで 内面は変わっている。まずは簡単な外見を変え、それから知恵がより いる環境を変えれば、内に籠って1人で悩むリスクも少なくなる。  ただそういう1人で悩むという事も新しい発想を生み出す力と なるので、これもこれで必要なのだが、極端にそればかりしていると、 う〜ん、となるわけだ。
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カオス前提の社会

 紀元前のギリシャ時代。無知の知で有名なソクラテス。 彼はあくまでカオスのこの世界を分からないと体感し、 言語による社会秩序を拒んだ。その弟子であるプラトンは 師の無知の知を知りつつも、師ソクラテスが嫌がる 社会的な言語的コミュニケーションによる社会秩序を望んだ。 プラトンはノリが悪かったからダンスや歌で世界を体感でき なかったのかもしれないが、そうとも言えず、徐々に社会が 複雑になると、哲学者による統治を望む哲学王なるものも 言い出す。だが、プラトンはこの世界がカオスに満ちている 事を知りつつ、この選択に出た。  現在、ギリシャ時代より遥かに社会は複雑化している。 人は世界に触れる事ができるか?社会の中でのたうち 回るしかないのか?子供時代に感じたカオスに満ちた あの生き生きとした強度の体験は得られないのか?  そうではなかった。世界は不条理である事は現代でも 変わりはない。ただ社会というものが宗教というものが 資本主義、民主主義という名の物の宗教がその不条理を 覆い隠そうとしている。非常に高度情報化、高度監視下社会 など、ぴりぴりした社会が作られている。 だが、つくられたそのような社会も前提に世界のカオスが 顔を見せる。この社会自体も単なるカオスに過ぎないのならば 社会も捨てたもんじゃない。脱社会もへったくれもない。 社会もカオス。絶対ではない。  まともに出来ているように見えても社会をつくっている側は カオスの世界前提でプラトンはつくったと・・・ そう・・考えれば、脱社会して、社会など実りなどないと 感じても社会の中で世界のカオスを感じる事もできるのではないか? 実り・・・その辺に落ちているでしょう。

電車運転士を懲戒解雇

 東武野田線で、乗務中に泣き喚く長男をなだめる為に仕方なく、一駅 分だけ、運転室内に入れた運転士が14日付けで懲戒解雇処分となった。 JR福知山線脱線事故があったばかりなので、この重すぎる処分に対し 賛否両論分かれています。  禁断の運転室内に入れてしまうのはそれは職務規定違反でしょう。 ですが、解雇処分は重い。当然とは自分は考えない立場です。 まず、問題は背後にある、普段の鬱憤をクレームにぶつける クレーマーどもの第三者の存在でしょう。現場の状況は 分からないが、子供を入れようとしていた運転士を見たなら、 まさにその時間・空間でその乗客が注意すればいいでしょう。 それが嫌なら。あるいは、その場で電車が発車してしまい、 注意できない状況なら次の駅で注意すればいいでしょう。 そういう生のコミュニケーションで済む話をお上に訴えるか のように、会社にクレームをつけるヘタレぶり・・・・ すぐに上に頼ろうとするヘタレどもは現場で解決する力を知らない。 全てお上で解決しようとする。これでは国の問題でも 国に振り回されるばかり。  命を預かる職務であることはもちろん分かるが、みんな車ではなく、 歩行者として信号無視ぐらいするでしょう。いちいちそれは軽犯罪 だから起訴することはないが、信号無視も危ないと言えば危ない ですよ。自らの命もそうだが、運転する車やバイクもそれを避けようと ハンドルを急激に振り切り、命に関わる重大事件がおきるかもしれ ませんぞ。運転士が解雇処分の重い処分に納得するなら、自分自身が 歩行者として信号無視しただけで、ブタ箱入りになっても納得 してもらわないと困る。  運転士がこれぐらいで解雇処分になるならますます不安にさらされ、 ますます運転に対して過敏になり、JR福知山線事故の二の舞に なるかもしれない。法律で重い処分で何でも解決する社会に なると不安で仕方ない、内発性のない存在となる。 そうではなく、内発性に基づいた人々のコミュニケーションが 不安を解消する社会を自分は望む。インターネット社会で なかなかコミュニケーション量も減っていると思うが、 ネット内においても第三者的なヘタレクレーマーではなく、 表に出てくる自分も当事者になるようなコミュニケーションを望む。

人生を半分降りる

人生を“半分”降りる―哲学的生き方のすすめの画像  中島義道著『人生を半分降りる』自分が読んだのは3年前ほどになる だろうか?中島義道と言えば『働くことがイヤな人のための本』が 有名でしょう。  俺はこの人生を半分降りるというフレーズが好きで今回紹介しました。 中島義道氏が言うには社会的にまともな生き方をするのを半分諦めて、 残りは自分の時間に使うという事だ。中島氏は哲学者なので、その 人生の半分を哲学することに使うであろう。残りの半分は生きていく 為にまともに社会的生活をする振りをする。  振りをするということなので、重心はあくまで自分の時間に 人生の大半を費やすということになる。人生を半分降りるというのは 全て諦めてしまったかのように見えるが、自分はそうとらえず、 ある種の知恵ととらえる。まともに生きている振りをしつつ、 自分がしたい事に時間をかけるという発想は脱力感とエネルギーが 同時に満ち足りていて良いと感じる。  中島義道氏の私的な内容を書いた本は非常に苦しくなるが、 人生を半分降りるはそこそこ哲学してる内容なのでお勧めです。

ハサミ男(ネタバレ注意!)

ハサミ男の画像  映像化不可能と言われた小説ハサミ男の映画『ハサミ男』半年の 間に二人の女子高生が殺害される。その死体の喉には深くハサミが 突き立てられており、マスコミはそれをワイドショー化し、その 犯人をハサミ男と名付け、日本中の話題となる。  知夏(麻生久美子)と安永(豊川悦司)の二人が犯行を行って いたのであるが、知夏は安永のする残酷的な殺し方に反抗的であった。 綺麗で頭の良い新しいハサミ男のターゲットを見つけたが、 偶然、知夏と安永はある森林の中で、自分達と同じ手口で 殺された女子高生を発見してしまう。ハサミ男が偽のハサミ男の 被害者の第一発見者となる。そこへ、ある男性がどうしたんだ? とやってきたため、逃げるに逃げれず、そこに留まり、警察の 事情聴取も受ける。  所轄の目黒西署は色めきたった。世間で話題のハサミ男を捕まえれば 名誉になると。そこへ、本庁からやって来たキャリア組のサイコ アナリスト、堀之内(阿部寛)とともに現場とともにハサミ男逮捕に やっきになる。  さて、知夏は自殺癖のある女性。安永はそれを優しく見守る 男性。結論から言うと、知夏と安永は同一人物。いわゆる、 安永は自殺した知夏のお父さん。知夏は自殺したお父さんの 死体を発見した第一発見者であり、ショックを受け、受け入れられず、 その事件以来、知夏は安永の人格をも持つ二重人格者になった。 ストーリーの粗筋は映画を観てもらえれば分かると思うので、 詳しくは書かないが、知夏はお父さんが自殺したのは自分のせいだと 思い込んでいた。私を嫌いになったから、しゃべりたくないから 自殺したんだと。実際は借金返済の苦悩ゆえに自殺したのだが、 あくまで、自殺したのは私のせいと責める。もっと自分が ちゃんとしていなかったから・・・っと。  脱社会化、猟奇的な犯罪に走るか、脱社会化したままタフネスに どうしたら生きれるのか?この映画にヒントが隠されていた気が するが、それは大問題なので、ここではおいておくとして、 この全く因果関係のない事を全て自分のせいだと思い込んでしまう 知夏のような人物には深く悲しい感銘を受ける。映画『グット・ ウィル・ハンティング』のウィルにせよ、映画『息子の部屋』の父 にせよ、自分が悪いから・・・・・っと極端に責めると自己尊厳が 極端に低くなる。すこしでもいい、君は悪くない、君はいてもいいんだ と無条件の承認を与えてくれさえすれば・・・与えてくれる人が 1人でもいれば・・・それが誰になるかはその人の境遇によるだろう。 夜回り先生が1人で這いずり回っても、難しい。 今そこにいるその人が、与えてくれれば・・・ 夜回り先生はリスペクトしています。しかし、あそこまいかなくとも せめて1人の人に対して1人でも与える事どうにかできない ものでしょうか?

TAKESHIS’(タケシズ)

TAKESHIS’の画像  今年の第62回 ベネチア国際映画祭でサプライズ上映時に賛否両論と なった映画『TAKESHIS’』を早速鑑賞して来ました。 以下ネタバレ要注意。  鑑賞後すぐは、正直つまらないと自分は感じた。映画鑑賞後周りの 観客は微動だにせず、そこまでこの映画に感銘を受けたのかと思いきや、 爆睡している人多数。思わず、自分は1人笑いをしてしまった。  しかし、鑑賞後時間が経つにつれ、体感できる映画だと強く 感じる。頭ではなく、体感できる。大スターのビートたけしに 憧れる顔も形も似た北野はただの俳優を夢見る単なるコンビニ 店員。だが、徐々に北野はビートたけしの映画の世界にひきこ まれていく。それはまるで解離性人格障害のように・・・  現在解離的な現象は普通になりつつある。親に見せる自分の顔、 友達に見せる自分の顔、先生に見せる自分の顔、会社で見せる自分の 顔、男に見せる自分の顔、女に見せる自分の顔。それぞれの場で 共同体が崩壊した今、使い分けている人が多いのではないか? 決定的なのはインターネット、携帯電話等の通信関連の 普及ですね。インターネット上の人格と対面したときの人格の 違いは大小あれ、経験しているはずだ。共通の価値観が崩壊 しただけでも、アノミーをひきおこしているのに、インターネット 等による過剰な情報を処理するにはその都度その都度自分の顔を 解離的に変えるのが今の時代、生きやすさにつながるのかもしれ ない。これは100年前の人間と変わってしまったのではなく、 社会的な背景が多いと考える。  さて、ビートたけしの映画に入り込んでしまった北野は? 映画の大部分が解離的な北野の映画の混乱した映画のシーン が現れる。そして、ラストビートたけしからサインをもらった 手帳にはビートたけしが冗談で、ピエロのエキストラをしていた 北野をちゃかして、「北野さんへとサインして下さい。」と 頼んだ北野に対し、「ピエロさんへ」と書かれてあったことに 対し、憤慨し、北野はビートたけし殺害を試み、ナイフでさす。  一体、これは北野のビートたけしの映画に魅了された 映画だったのか?最初からコンビニ店員北野など、存在しなく、 ビートたけし本人の妄想だったのか?それは分からないが、 前衛的なこの映画にイイ刺激を受けました。

エターナル・サンシャイン

エターナル・サンシャインの画像  映画『エターナル・サンシャイン』バレンタイン目前。ジョエルは 不思議な手紙を受け取る。「クレメンタインはジョエルの記憶を全て 消し去りました。今後、彼女の過去について絶対触れないようにお願 いします。ラクーナ社」このような内容の手紙が届く。クレメンタイン とはジョエルと喧嘩別れした?元恋人である。ラクーナ社による、 悪質な商法と疑いつつも、クレメンタインとよりを戻そうとしていた にも関わらず、この手紙には怒り心頭。  すぐにラクーナ社に行き、事情を聞く。実際に特定の記憶だけを 消せる装置があるというのだ。ジョエル自身、特定のクレメンタイン だけの記憶を消せるなら、自分もしたいと申し出る。  そしてラクーナ社によるジョエルのクレメンタインに関する記憶の 消失作業が始まる。装置につけられ、睡眠状態に入ったジョエルは 記憶喪失作業をやっている声が脳の中?夢の中から聞こえる。 するとなんと、作業員の男の1人がジョエルの情報を駆使して クレメンタインを口説いているらしいと。クレメンタインの好きなもの を的確に当ててしまうので、その男にクレメンタインは魅かれていた。  記憶消失作業中、現在から過去へのクレメンタインとの喧嘩ばかり ではない、思い出にたびたび出会い、この記憶喪失作業から 抜け出そうとする。この一連のめちゃめちゃな脳内体験の映像化は ユーモアがあって面白い。だが、結果は虚しく、ジョエルは クレメンタインに関する情報を失くす。  しかし、たまたまジョエルとクレメンタインは電車で再び出会う。 一夜を共にした後、クレメンタインの元にテープが届く。 ラクーナ社の社内にいる女性自身も記憶を消された経験があって、 ショックを受け、全患者に元の記憶を取り戻させるよう、 何故記憶を消したいかを語ったテープを送ってしまった。  記憶を消された後初めて出会ったジョエルとクレメンタイン がこのクレメンタインのテープを聴いた時、二人は固まる。 クレメンタインのテープでの肉声「ジョエルは退屈な男で、 顔見てるだけでもいらいらする・・・息が詰まる。」等々。気まずくなった 二人。ジョエルはクレメンタインに車から降りろと怒る。  家にジョエルが帰るとジョエルにもテープが届いていた。 そこへクレメンタインが現れる。さっきのはごめんね、と。 そこで、たまたまジュエルが自分の肉声の入ったテープを 聞いていた。「クレメンタインは誰とでも寝るような女で、 自分勝手なやつで・・・・・」と相手の嫌な面をとつとつと語る。 帰る!!!!と言って飛び出すクレメンタイン。 そこへ、ジョエルが「ちょっと待て!」と。  クレメンタインは「どうせ再び付き合ったって私はあなたの 顔を見ていらいらして、息が詰まるだけだ!!!」と言う。 それに対してジョエルは「それでいいんじゃない?」 っと言った途端、二人とも大爆笑。  喧嘩したときは特に相手の嫌な面しか見えなくなるものだ。 それって当たり前じゃな〜い!?そんなもんでしょう!!

対人恐怖症

 今回は重めの文章で私ジョンにまつわる話なので、読みたく ない方はここでおやめを・・・(苦笑)  対人恐怖症VS自分。この闘いを自分は曖昧な記憶として認知 する限り、保育園入園時から始まった。症状としてはその頃は、 過度なおもらし。小学校入学前後頃から赤面恐怖を併発し、 歳が進むにつれ、過度の緊張による手足の震え、過度な心臓の鼓動 を患う。さらに小学校中学年頃には顔のひきつり、視線恐怖を 併発。小学生の自分にはこれらの症状に対し、なす術あらず。 親や周りの友達にこれらの症状を訴えようものなら、変人扱い され、世界の外へ放り投げられる恐怖で一度も言えず。 中学・高校とこの症状に振り回され、勝てぬ敵、我が人生、一瞬の 夢如く過ぎ去る事を待つのみであった。  負けっぱなしの自分は、まずは親に内緒で姑息な手段で自己暗示 訓練テープを高校2年の冬に購入し、ばれぬよう人格改造を果たそう としたが、逆効果。緊張を抑えようとすればするほど症状は悪化する ばかり。やはりこんな簡単に克服できるのは甘かったと反省。 高校3年大学合格後すぐに江川ひろしの話し方教室に入会。 この話し方教室が自分にとって負けっぱなしであった、対人恐怖 に対し、果敢に向き合った瞬間である。顔はひきつり、手足は震え、 心臓はありえない緊張で何週間も過度な緊張が続く程の人前で 話す訓練。負けしか知らなかった自分が初めて勇気を出して向き合った 瞬間であった。だが、治そうと人前で話せる誰とでも話せる鍛錬を 積もうとすれば、するほど理想は上がり、それに伴い、症状は増す。 悪循環。その後、様々な物に手を出した。まるで対人恐怖症を 治す事だけが人生の目標であるかのように。催眠療法、仏教、〜療法、 お金があまりにかかるものは本を買い、自分でどうにかした。 大学在学中にどうにかしようと思ったが、それ叶わず、思い切った 手段に出た。営業職に就いて一気に治そうとし、実際に生命保険の 営業職に就く事ができたが、3ヶ月で挫折。  この辞めた事が大きなきっかけとなる。対人恐怖症は戦うものでは なく、共存するものだと気づきはじめる。そうか、自分に分相応なもの を自分に求めるからそれを体が症状という形をとって拒否しているのだと。 いや、そもそも最初に体の症状ありき、でそれに振り回されていた だけではないか?と。自分は大学時代重度身体障害者の介護のアルバイト をしていたので、普通に例に出して書くが、手足が元々動かないのなら それはそれ相応の生き方をするのが自然。自分に対人恐怖の症状 があるのなら、それに抵触をしない生き方が自然。楽。 対人恐怖と戦わずそれとの共存が大事だと気づいてもその後もつい 戦ってしまって、敗戦、敗戦。も続いたが、基本的には徐々に 対人恐怖症VS自分という図式が頭の中に消えていった。 治さなくてもできることあるじゃん。って。  今でもついつい力んで戦ってしまう事はあるが、基本的には 対人恐怖というものが自分の優先順位項目の最下位候補になりつつある。 それまでは優先順位といっても第一位の対人恐怖しかなく、 それしか見えていなかったが、優先順位項目も増え、ぐっと 順位は下がり、時折奮戦してか、対人恐怖君が時折姿を見せるくらい。  仮に対人恐怖が完治したと仮定し、完治した自分は一体何を やりたかったのか考えてみると実は何もなかったりする。対人恐怖 が治ってしまったら、実は無。手段の目的化が生じていたりする。 戦っている方はそもそも治ったとしても何が自分がしたかったのか、 対人恐怖自体を治さなければ先に進めないと思っていないか? 対人恐怖のままでできることもあるのでは?と問うてみると よいかもしれない。

表現と表出

 昨今、北朝鮮問題、靖国問題等々で右傾化する若者がいると言われて いる。だが、右と言っても天皇を崇拝するでもなく、ただ感情的に カタルシスを得たいが為の右に見える。いわゆるプチナショナリズム である。ただ本来右とは国家に媚びる中央集権的な再配分制度を 否定し、私的自治の原則で、国ではなく、中間集団、小さな共同体 でできることはやるというその小さな共同体を尊崇する立場だ。 左は国家に頼る中央集権的な再配分制度。だが、極左になると、 国に媚びるのではなく、中央集権的な再配分制度を利用し、 私的自治の原則を貫徹させるというところまでいくので、極左と 極右は行き着く道は同じとよく言われる。  元一水会代表、新右翼の鈴木邦男氏は、イデオロギーにまつわる ある種の〜反対運動や暴力的なものにまで及んでしまう行為が 単なる自分の鬱屈した気分を晴らしたい、カタルシスを得たいだけで ある事が分かって活動していた。  つまり表現と表出の違いが分かっておられた。 表現とは、言動により、相手に自分の期待する言動を起こさせる事。 表出とは、ただ単に言動によって感情的カタルシスを得る事。 前者は非常に戦略的に振舞わなくてならず、我慢強さが必要だ。 一方後者の例としては、恋人同士がお互いが好きであるのに 関わらず、ちょっとした事ががきっかけで、別れてやる!!と 感情を爆発させ、後々後悔するとも知らず、その感情爆発させた 時は非常に気持ちの良いカタルシスが得られるものだ。  戦争反対運動でもなんでもよいが、それが表出行動だと分かって やるのなら、非常によいカタルシスを生む。だが、その騒音的な 反対運動の結果、逆に政府に聞く耳を持たなくさせる恐れも十分ある。 本当に戦争反対支持したいのなら表現を使い、時には政府に媚びつつ 戦略的に振る舞い、相手を動かす必要があり、忍耐がいり、逆に 反カタルシスを得てしまうこともあろう。  ここで、表現が良くて、表出が悪いというのではない。どちらも 必要であるということだ。だが、この区別を知っておくと非常に 行動しやすい。表出ばかりして、自分が期待していた逆の結果ばかり 起こるよりも、時には表現をし、戦略的に振舞う必要がある。 逆に表現ばかりしていては疲れる。時には表出して、感情的 カタルシスも必須だ。要はバランスが大事。 このバランスが難しいんだけどね・・・ホント・・・
プロフィール

まさみ

Author:まさみ
ブログはこちら一本でやっていくことにします。

パソコンできる環境が作れず、こちらのブログのほうがスマホでも扱いやすいからです☆

よろしくお願いします。
⊂⌒っ*-ω-)っ

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