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デビルマン

デビルマンの画像  映画『デビルマン』またまた原作を読んでいない自分ですが、 かねがね、デビルマンは深いと聞いていたので観てみました。 とりあえず、主人公を初め、演技の下手さ、構成の悪さは置い ておいて(苦笑)お話としてコラムを進めます。  主人公の不動明と了はおさななじみだった。明は了の悪魔的なものに 魅かれる姿を見て違和感を感じていたが、それでも二人はずっと一緒に いて、親友で高校まで来た。だが、了はずっとずっとおかしかった。 一度も笑った事がない。ただ明がいじめに遭った時相手の指を躊躇なく 切るなど了の恐ろしさは伝わっていた。  了の父は氷河期により地下奥深くに眠っていたデーモン達をボーリング によって復活させてしまう。そして了の父はデーモンに寄生され、 死んでしまう。同じく明もデーモンに寄生されたが、人間の心を 持ったまま踏みとどまり、悪魔かつ人間である、デビルマンとなる。  デーモンといっても実は弱い生き物で他に寄生しなければ 生きられない生き物。デーモンが人類に寄生し始め、人々は 疑心暗鬼になっていく。一見普通の人に見えてもデーモンで ある可能性があるので、互いが互いを疑い出す。デビルマンと なった明は愛するミキの為、人類のため?デーモンを倒すが、 何故俺を殺すんだ?と逆にデーモンに詰問される。デーモンは 人間が生き物を喰うように、自分もただ人間を食べ物として 喰っているだけだと言い、だがサタンだけは違うと言い残し、 死んで逝く・・・・  一見人に見えるデーモンであるので、ちょっとでも疑いが かけられれば、デーモンとされ、射殺される法律ができ、 さらに日本で広がったデーモンを退治する為にはなったミサイルに より世界大戦が始まり、結局デーモンだけでは人類滅亡などできる 数ではなかったが、人類は自滅し滅亡していく・・・ 愛するミキ自体デーモンではなく、デーモンの疑いをかけられ、 人間に殺されてしまう。  まさに漫画『寄生獣』と『幽幽白書』のセンスイが言っていた 人間の醜悪さ、他の生き物に対する無神経さを描いた系列の原点の ような物語だ。  サタンは了だった。寄生されることもなく、最初から了はサタン だった。人類滅亡を望んでいたのは了であるサタン1人であった。 だが、人間である明だけはどうしても好きだったらしい。 ラストはデビルマンVSサタン。だが、人類はほぼ全滅。  全滅系といったら、おかしいが、そういう系統の物語は寓話的 で、何か心に届く。むかしむかし、おとぎ話を子供の頃聞いていた ような。変な言い方だけど、人間みんな突き詰めれば醜悪。 それが人間。だったら醜悪な自分に自信がないと思う必要はない。 醜悪だからこそ自信を持ってもいいとさえいえる。 人間として人間を美化美化すると息がつまっちゃうでしょう。 そうすると本当はそんなに美しくないから自分に自信持てなく なっちゃう。醜悪でいい、だけどそれが愛でたい気持ちになる のは人間の不思議。それでいい。
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有害メディア

 1985年にアダルトビデオレンタルが開始され、1999年 の16〜19歳のアダルトビデオ視聴経験者の割合は72%を越える。 それに伴い、強姦で検挙された未成年男性も半数以下に減った。 因果関係の因というものは多数あるのが常であるが、有害と言われる アダルトビデオを観たことにより、ガス抜きされたというのは 大きな要因と思われる。別の言い方で言えばSEXに対して、免疫が ついたとも言える。  有害メディア悪影響論がよくささやかれるが、アカデミズムの世界 では、性犯罪を有害メディアに関連付けるのは早計だと言わざるを えない。元々暴力的な人間が有害メディアを観た事で、きっかけとして 実際に性犯罪に行動を起こす事はあるかもしれない。しかし、元々 暴力的因子(弾丸)を持っている人間が性犯罪(弾を打つ)を起こす きっかけは、たまたまメディアによるものかもしれないし、ほっといて もするかもしれないし、ささいな口論がきっかけかもしれないし、 ささいな嫌なことがあってのことかもしれない。つまりきっかけは何でも よいとも言える。むしろ何故暴力的な因子(弾丸)が生まれたのか? を問題にすべきとされている。  ただ、元々有害メディアに触れていない人間が免疫もなく、突然 触れてしまったら、悪影響はあると思われる。だからある種のゾーニング は必要で、アダルトビデオなら、一般の映画とは別のコーナーに置かれて いる現状は肯定してもよいと思われる。だが、いくらゾーニングし、 隔離しようと、家には大人がいて有害メディアに接する機会は子供には いくらでもある。それは家庭内の問題にするしか方法がない。 エロ本なんてよく泥だらけになって、道端に落ちていますしね(笑)  議論が難しいのが何歳をもって免疫をつけさせるかだが、これは 子供によって成長の度合いが違うので難しい。個々の家庭、共同体 でモラルをつくってもらうしかないのかもね。とはいいつつ、 簡単にインターネットで有害メディアを見れてしまうのだから、 それに煽られないように前もって、徐々に性的免疫をつけさせていく のがよいかもしれない。現実に性的免疫をつける機会があるのが ベターなのかもしれないが、それは意見が分かれるところであろう。  最近はエロ本系にビニールで縛って見れなくさせていますね。 たまにビニールが破られたりしているが・・・(笑) 性的メディアを規制するのは良いがそれによるガス抜き、表現の 自由の剥奪を鑑みると難しいところである。 だが、思考停止的に有害メディア=悪と見るのは最早時代遅れなのは 確かだと思われる。

DV ドメスティック・バイオレンス

DV ドメスティック・バイオレンス スペシャル・エディションの画像  DV(ドメスティック・バイオレンス)は昨今、常時日本での被害者は 40万人を昇ると言われている。これは公表されている統計なので、 公にすらできない数々のDVが潜んでいる事であろう。  映画『DV』は2004年12月改正DV防止法が施行されたが、 法律ではどうにもならない部分を良く描き出している。 おうちの事はおうちで解決しなさい!というのが理想で、警察も DVに関してはただの夫婦喧嘩でしょう?と片付ける。警察の 頼りのなさを浮き彫りにし、かつ自分達の問題は自分達で解決する 私的自治の原則を実行したこの映画の被害者泰子は逃げずに戦った。  警察もDV防止センターも役に立たない。そこで泰子は遠藤憲一 演じる昭吾と逃げずに戦う事をした。宗方というDVの相談役 ではあるが、元DVの加害者で妻を自殺に追い込んだ彼のアドバイス の『殺したっていいんですよ。正当防衛ですから。まずはあなたが 被害者であることに気づき、逃げる勇気を持つことです。』という ものを受け入れるかに見せかけたが、泰子は逃げなかった。 泰子は自宅に動画を撮れるカメラを密かに取り付け、自分が DVに晒されている様子をリアルタイムでインターネットのホームページ で配信し、なんとそのサイトは1万アクセスを誇るページとなっていた。 現実的に考えればもし、このようなサイトがあれば興味本位で 1日100万〜200万アクセスさえ下らないのではあるか? 泰子は自分の羞恥心を掻き捨て、DVされている模様を公開。 当然、インターネットは今や巨大なマスコミであるので、話題になり さえすれば、警察も動かざるを得ない。ここまでやるDV相談役で 元DV加害者である宗方はこの行動に感動する。  夫の昭吾は逮捕され、宗方との面会で絶対に離婚はしないと 言い張る。宗方はどうか、あなたの意思で泰子さんを自由に してやってくださいというが、断固離婚はしないと言い張るのみ。 だが、宗方自身も元DV加害者かつ妻に自殺された話を聞き動揺し、 泰子には子供ができた事を知った昭吾に彼女はとっくに堕胎したよ! という言葉に愕然とし、さらには、あんたもし、子供ができても 絶対に子供に暴力を振るうよ。『あんたが親にされてきたようにな!』 という言葉に昭吾は涙し、固まってしまう。  加害者である昭吾自身元DV被害者であった。DVの連鎖。 泰子は実は堕胎などしておらず、子供を昭吾に内緒で堂々と 生もうとしていた。DV被害者には切実な問題だ。家族はこうあるべきだ! という幻想を捨てどうか逃げる方法。泰子のような戦い方。 少しはヒントになる映画にはなるかもしれない。

宗教概論

 仏教。輪廻転生を脱して悟り仏になるにはどうすればよいのか? 経典なるものが、あれにはそもそも悟りとは何か?とは書かれて いないし、悟る方法論さえ書かれていない。経典を読む事は悟りに なる確率を高めるかもしれないが、それを読んで行動しても 悟りを開けるとは限らない。あくまで確率論なので、曖昧だ。 唯摩居士が独覚という、経典など読まず、何もせずに勝手に1人で 悟りを開いてしまった事例もある通り、経典なくとも悟りが開ける 事もあるし、明確な悟りの方法が書かれていない為、非常に苦難の 道である。  が、我が日本国ではこの仏教は大きく創り変えられ、念仏さえ 唱えていれば救われるというところまで来た。インドや中国の 修行僧のようにどうしたら悟りが開けるのか?苦悩して発狂し、 死んでしまうこともなく、あくまで日本的な仏教に創り変えられる。 最早仏教の体をなしていない。  ユダヤ教。これは旧約聖書に神が定めた禁止事項さえ外面的に 守ってさえいれば救われる。聖書に定められている規定=法律 となっており、非常に単純明快な宗教。つまり、禁止されていない 事項なら、どんな事もしてもよいことに論理的にはなる。  イスラム教。これも、ユダヤ教に似ている。コーラン以下、下位法源 に定める規定さえ守っていれば救われる。ユダヤ教同様、内面はどうあれ 外面的に守っていれば救われる。同じくコーラン=法律となっており、 至極明快な宗教。  キリスト教。これは神の子イエス・キリストが律法を廃止して しまったため、何の禁止規定もない。つまり外面的にも内面的にも 何をやってもよい。ただ救われる条件はイエス・キリストを神と 信じる信仰のみ。それ以外は問われない。  仏教と同じくキリスト教は日本でも1%以下だが、いるので、 付言すると、よくお前の信仰はまだまだだ。という言い方があるが、 論理的にはおかしい。少ない信仰、多い信仰など論理的にはありは しない。信じているか、信じていないか2つに1つ。 日本人は曖昧にしちゃうので、もっと努力して信仰心を高めないと・・ なんて言うが、信仰に大小はなく、あるかないかの二元論。  芥川龍之介の小説に『神々の微笑』という短編小説がある。 そこでは、日本に持ち込まれたものは仏教であろうとキリスト教 であろうと、全く違うものに創り変えられてしまうことに警告を 発し、どうか御気をつけなさい、御気をつけなさい。という文章 がある。  古来より、島国であったため、常時他国の侵入という脅威に さらされなかったために、緊張感がなく、どうにかなるさと どんなものも論理的に考えず、日本流に創り変えていく。 日本の討論もまた論理的なものではなく、論理で負けたものは 人格さえ否定された感もある。欧米なら、論理をして、負けたら 何故論理的に負けたのか検証し、当たり前のようにさらに論理を 継承し、成長していく。論理なぞ、仮説前提でするもなので、 論争で負けたからといって、人格が否定されるなんて微塵もない。 論理なるものも日本流に変えられるのでしょう。 不思議な国です。この国は。

恋の門

恋の門 スペシャル・エディション (初回限定版)の画像  映画『恋の門』原作の漫画を映画化。よくある話だが、この映画は 実写で観ていても、ありえない話が出てきても、これ映画だからなー って感じるより、これ漫画だよーっと感じてしまう。  映画『NANA』のレン君役の松田龍平演じる蒼木門は石で漫画を 描く漫画芸術家を名乗る。酒井若菜演じるアニメおたくのコスプレ OLの証恋乃。この二人のコメディ恋愛映画。  松田龍平のしゃべり口調、浅野忠信を感じさせるものがあり、 風格が出てきましたね。門君と恋乃は石が好きな門君が石を拾おう とした時、恋乃も急いでいてその手を踏んでしまう事から始まる。 二人は漫画という共通項はあるものの、門君は石に漫画を描くという わけのわからぬ正確に言えば売れない芸術家。恋乃はコミケにも参加 するアニメコスプレオタク。恋乃が好きなキャラクターに門君が 今までの男の中でコスプレ姿が、一番似合う事から魅かれる。  漫画という共通項はあっても、お互いの趣味が全く理解できない 二人。コミケのイベントに参加した門君はついつい吐いてしまう ほどで、恋乃も石が好き〜♪ってお互い石を投げ合って、 頭に当たったりしてる姿を思い描いてありえぬ!と思う始末。  オタクの定義。これは非常に難しいが、萌えが一種の主要な 要素とされているようだ。そもそもオタクは1983年に中森明夫 が使った。オタクには自分に自信がないという含意も込めて、 自分はと言わずに、自分の事をお宅は?っと曖昧にするところも あるようだ。オタクの世界の中では自信があってはオタクの資格は ない!という議論もあり、自信のあるオタクには批判的で 興味深い。オタクにマイナスイメージがついたのは宮崎勉の幼女連続 殺人事件からで、それが一番大きな原因だ。虚構と現実の区別が できないのはオタクに言わせれば、ナンセンスで、現実がつまらない からこそ、敢えて虚構の世界で戯れるという、一番虚構と現実の 区別がついている。だからオタクが虚構と現実の区別がつかない 凶悪な犯罪に走るというのは、根拠がなく、実際にほぼ起きない。 むしろ、虚構の世界、コミケでのコミュニケーションで濃密な 体験を得られるので、無害とさえ言える。  っと固い話を置いておいて、この恋の門という映画はとにかく 笑えるので、だまされたと思って、観る価値ありです。 ここまで、映画を観てるような漫画を観ているのか分からなくさせる 映画は始めてだ。レン君どうしちゃったの?って思っちゃいますよ(笑

生きる義務から生きる権利へ

 小学生の低学年の頃だっただろうか。自分だけだと思われた 不思議な症状に悩まされていた頃、お風呂場の中にある鏡に映る 自分の姿を見た。その時それまでに感じた事がない摩訶不思議な 感覚に呑み込まれた。精神的にしか存在していないと感じていた 自分が物理的に存在している事が不思議で不思議でしかたなかった。  映画『海を飛ぶ夢』のラモンの主題のように私は生きるとは権利 であって、義務ではないと言っていたのが印象的だ。 生きる義務、それが苦しかった。小学生の頃よく考えていたのが、 早くこの人生が終わって来世になって欲しいと願っていたもの だった。何の宗教的なものではなく、ほんの子供心で・・・ 内面的なずれた子供だったもので・・・(苦笑)  そう、鏡を観た時、自分は物理的な存在として宇宙の一部だと 深く感じた。そして、それを壊してしまっても、このくそでかい 宇宙の中では、何も変わらないと・・・  その時存在しなければいけない義務から解放された感がある。 今振り返って見ると、生きる義務から生きる権利への転換か。 存在してもよい、しなくてもよい、そういう選択肢が与えられ、 非常に自分は楽になった。来世など期待しなくても今ここで、 自分なりに存在してしまってもいいのではないかとふと思ったのである。  今ではあの鏡の魔力に吸い込まれなくなった。一度限りの儀式の ような体験だったのであろう。  今回は自分に関するコラムで気持ちが悪くされた方もあるかも しれない。なるべく、客観的なコラムにしていきたいと思っている 所存ですが、ちょっといたずら心的なものがでてしまいました(ぺこり)

海を飛ぶ夢

海を飛ぶ夢の画像  映画『海を飛ぶ夢』第77回アカデミー賞外国語映画賞受賞作。 海に飛び込み頭部を強打し首から下が付随になってしまったラモン という男の物語。26年間寝たきり生活を続け、ラモンはついに 自殺いや尊厳死を決意する。ラモンは尊厳死の合法化の為に 裁判所に訴える。  ラモンの介護でやりたい事を我慢して来た家族にとって、ラモンが 死にたいというのは絶対に許せない兄。微妙な思いを抱える家族や 親戚。ラモンは寝たきりであっても、言葉が話せ、しかも詩の才能が あり、本も出版できる能力も持っている。それに生き甲斐を見出し てもいいのだが、あくまで死ぬ事に拘る。ラモンは言う。植物人間 状態の人にとっては大変失礼かもしれないが、ラモン一個人として 尊厳死を認めて欲しいと主張しているのだ。ラモンにあくまで生き甲斐 を見つけて、生きる意味を見つけようとさせる周りの人々。だが、 ラモンは言う。それは逆だ。死ぬ事が自分にとって生きる事であると。  これには大変な根の深い問題がある。世界各国でも安楽死の問題は 議論が尽きる事はない。答えのない話なのだから。  ちなみに我ヶ国、日本国では安楽死を認める条件として、 現在では4つの条件を挙げている。 第一に、治療法のない末期患者 第二に、耐え難い肉体的苦痛がある 第三に、苦痛除去の手段がない 第四に、本人の意思表示がある場合  ラモンの場合この4条件を満たさない為、日本においてラモンを 安楽死させた人間は殺人罪に処せられる。 ラモンの場合、四番目の条件ぐらいしか当てはまらないと 言ってもよかろう。二条件の条件が耐え難い精神的苦痛となれば、 2条件も当てはまる。  4条件目の本人が植物人間状態だった場合、本人の意思表示は 表せないため、家族の同意を取っても違法行為となる。 大変議論が分かれるところである。安楽死=自殺ととらえてしまう 場合宗教的勢力の猛反発を喰らうであろう。だが、法律は政教分離に のっとり、宗教的立場から非合法とは訴えられず、単に地獄に落ちるぞ ぐらいしか非難のしようがないだろう。 これは真に個々の実存の問題となってくるので、非常に難しい問題だ。 個人的には植物人間になったら、即安楽死してもらいたい。 または、精神的苦痛が極限にまで達し回りに迷惑をかける 存在にしかならないのなら、あくまで自分個人としては安楽死 を選ぶかもしれない。だが、人それぞれなのだから、普遍的に 安楽死肯定とは言えないわけです。  さて、よく癌告知を本人にするか、しないか?と議論になるが、 これに関しては告知するべきだと思う。余命1カ月と知ればこそ、 本人が真にやりたい事ができるし、真に家族や友人と語り合うこと ができるだろう。告知せずに、そのまま死んでしまい、もっと 語り合っておけばよかったと後悔することもない。 もう会う事もないと思ってた人が突然訪れるかもしれない。    安楽死の問題に関しては世界各国議論が沸騰しており、答えが ない問題だが・・・死を意識することは生きることにつながるという ラモンの言葉は示唆に富む。日頃からいつ死ぬかもしれないと意識 するとその人らしい生き方につながるケースが多いからだ。 無理をしないその人の生き方。楽ですよ。それが一番。

コーヒー&シガレッツ

コーヒー & シガレッツ (初回限定生産スペシャル・パッケージ版)の画像  ジム・ジャームッシュ監督『コーヒー&シガレッツ』過去にも 同様の映画があったらしいが、最新作の映画を観た。 内容は題名の通り、喫茶店で、コーヒーと煙草とともに 様々なシーンで有名俳優達が語り合うシーンが描かれる。 あまり海外俳優、海外のサブカルチャー詳しくないのが、 楽しめないのが悔しいところ・・・ 日本で言うなら織田裕二と柳場敏郎がプライベートで喫茶店で 語り合う風景なので、海外の事情分かってれば言うも及ばず・・  だけど十分楽しめた。数あるシーンの中で自分が気に入ったシーンが 喫茶店に友達Bを呼び出した青年Aのお話。題名は『NO Problem』 呼び出されたBはAに何か問題事や相談事や悩み事があるのではないか、 と心配して話を聞こうとするが、Aはただひたすら『順調だ!』と 答える。Aは『ただ会いたかったから電話したんだ・・・』と言う。 もちろんBも『自分も会いたかったよ。久しぶりだしな』と言う。 だが、どうも違和感をBを感じるのか、『本当に悩み事ないのか?』 と聞く。それに対してAは『俺が順調じゃ悪いのか?』と聞く。 Bは『そんなことはないが、順調じゃないのかと・・・』 変な空気が流れて・・Bはまた電話してくれと帰って言ってしまう。  なかなか笑えました。そりゃ、友達が呼び出して会いたいというのだ から何かあったのではないか?そして、それを聞きたい欲望もあって 来たのに、何も問題がないとは!なんかしっくりこなかったB。 大事な人だから順調なのは喜ぶべきことなのだが、どうも相談に 乗られることで友達としての関係を深めたい自我意識みたいなのが 垣間見られたりして・・  なんか問題がないと変。みたいな感覚あったりすること あったりしませんか?面白いですねー。何もないと落ち着かなかったり。 Aのようにノープロブレムでゆったりと人と又は自分とかまえたい ものですね。
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Author:まさみ
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パソコンできる環境が作れず、こちらのブログのほうがスマホでも扱いやすいからです☆

よろしくお願いします。
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