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機能化されていない場所

 合理化・機能化された社会。論理的な思考のできない者にとっては、息が つまりますよね。理屈では分からない自然や音楽や不条理な世界自体に人が 触れる時、やはりなんともいえない解放感を感じさせてくれたりする。  太宰治だったか、ちょっと忘れてしまったが、人間捨てたもんじゃない。 なぜなら花が美しいと発見したのが、人間だからだ!というような事を 言っていた気がする。何故花が美しいと感じるのか?こういうのは 理屈では説明できないですよね。美しいから美しいというほかない トートロジー(同語反復)まあ、この色彩の組み合わせと形が良いと うんちくを語る事はできるかもしれないが、何故その色彩と組み合わせに なっていると美しいと感じるかは説明できない。そんな感覚機能化された 社会になると剥奪されていってしまう。  例えば学校において・・・ 教室では授業を受ける学生として、廊下では廊下を歩く人として、 トイレではトイレをする人として、プールなら泳ぐ人として、 保健室なら保健を受ける人としてというように場所、場所で機能が 定められている。当たり前と言えば当たり前だが、唯一機能が与えられて いない場所がある。それは屋上。屋上においては何者かとして機能が与え られていない。だからこそ、人は解放感を与えられる。 だが、最近では屋上も機能性優位の為か、プールを造ってみたり、 バスケットボールのコートを造ってしまっているようで、合理的には 確かにその方が良いのかもしれないが、生徒がなんでもない何者でもない 逃げ場が無くなってしまう。大人の監視から逃れる安堵の場所がなくなる。  街でもそうだ。どこもかしこもなんらかの機能を持たせたものばかり。 機能のない場所などどんどん減っている。数年前ジベタリアンという 地面に座る若い人が増えてとりざたにされていた。 それは機能のない場所を求めて起きた現象だ。実際に試してみるとよい。 こんなところで座ったらおかしいところで座ってみる。その高さで 世界を見ると全く別の世界が開けている。本来は通行する人として機能が 与えられた場所を座る事によってその場所を機能のない安堵の場へと 変えてくれる。  ロンドンでテロがあり、電車やバスに乗るにも証明書が必要になってきて いるというではないか。監視下社会が加速度的に進んでいますね。 小学生の子供に携帯電話持たせていつどこに、その子供がいるか把握しようと さえ、しているそうではないか?犯罪防止?それも一理あるが、今の子供の 逃げ道は一体どこにあるのだろう?機能化されていない場所は。  不謹慎なの覚悟で自然災害がそれに気づかせてくれるでしょうね。 地震、台風、噴火等々、破壊によって機能化された場所が消えうせ、 廃墟となったその場所は人に安堵を与えてくれたりする。 もちろんその被害に遭われた方には申し上げにくい事ですが・・  それに気づかなくとも明らかに人工化されていない自然という場所に 向き合えば機能化されていない場所に出会える。そして・・・この 機能化された都会においてもきっとどこかに隠れ秘密基地がある。  理屈、論理は必要だが、それだけでは疲れてしまう。しばしばこの コラムでも思考停止はダメだと書いてきたが。理屈、論理だけでは 疲れてしまうし、楽しくない。まー敢えてネタとして理屈、論理的に 考えてみるのも時には必要という感覚ぐらいがよいでしょうか。
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インストール

インストール~野沢朝子の風景~featuring上戸彩の画像  「蹴りたい背中」で芥川賞を受賞した綿矢りさのデビュー作「インストール」 を映画化した作品。レンタルビデオ店でこの映画を何度も観かけたが、 上戸彩主演の単なるアイドル映画であったとつくづく思っていた。 原作を読んでいないから、映画だけでしか判断するしかないが、自分が 考えている思想に近いものがあった。    17歳の女子高校生を演じる上戸彩扮する朝子は退屈な高校生活に やるせない思いを抱いていた。みんな同じ制服を着て、同じ授業を受けて 、誰が誰に入れ替わっても同じようなそれは退屈な高校生活。 朝子の場合は違ったが、それとは別の傾向に向かう郡もいる。 それはいじめ。みんな仲良くなどできるはずもないのに、 それを強要し、無作為に20人〜40人の1クラス に分けて全国一律の学校教育を行う。聞くところによると全国どこの 学校でも教室の天井の高さ、机の高さ、授業のやり方など全て決まっている そうではないか?馬鹿げている。全国一律にすれば平等になるという短絡的 な思考が席巻しているのだ。山の近くにある学校ならそれに根ざした教育。 海の近くにある学校ならそれに根ざした教育。極論すればそうだが、 地域地域によって教育方法が違うのが、自然な事だと思うのだが・・・ 教育は国がやるべきものではなく、地方自治体に権限を大幅に委譲した方が 良いと思うのである。まるで強制収容所のような無作為に教室に閉じ込められ るクラス制度、画一的な教育は刺激を求める為にいじめに走る輩が出てくる のでよくない。  話は戻って映画インストール、一方朝子は退屈な高校生活に対して、 不登校という選択肢を取った。部屋のものも全て捨てた。 お前には夢、人生の目標が無いと強迫的に責められる。 朝子が捨てたものの中の一台のパソコン。これを欲しいと突然現れた ませた小学生かずよし。朝子はパソコンの事がわからず、壊れてるよ!と 言うが、持っていくクールなかずよし。  学校に行ってる振りを見せかけて制服で出かけて、親が仕事に行ったら、 家に戻ってくる生活を続けている中、ふと小学生のかずよしと再会。 パソコンをインストールし、普通に起動できるようになったとかずよしは 話す。さらに朝子にあなたのような平日の昼間暇な人に絶好の仕事が あります。とエロチャットの仕事の話を持ちかける。人妻風俗嬢26歳の 雅(みやび)に扮して日中は朝子が、小学校から帰宅後、かずよしが男性と チャットをする。ただそれだけの仕事。ただ実際の性体験もない朝子は とまどいつつ、興味に惹かれてやってみることに。かずよしも経験はないが、 エロ知識だけはあったので、どうにか雅に扮して見ず知らずの男性と エロチャットを交わす。全く性に関して知識のない朝子であったが、 エロチャットを交わす内にそのエロの深さにはまっていく。  そして半年が経った。不登校もばれ、かずよしの部屋にいることもお互いの 両親にばれ、とうとう仕事は終わった。なんともなしに再び高校に行く生活を 始める朝子。そう、その濃密なエロチャット体験がこの話の場合、大人になる ための無意識の儀式となっている。離陸→混融→着陸を通して、外面は 変わらず、生活スタイルも変わらないが、何かが変わるのだ。  夢や目標を持とうとするのは強迫的だ。えてしてそれは大きなものだと 思いがちであるからだ。だが、本当に大事なものはとてもとても小さく 身近なものだと気づいていくのである。それは他者から見ればちっぽけな ものだが、自分にとっては大きなものなのだ。

ウルトラマン

ウルトラマン1966(ビジュアルブック+DVD)の画像  ウルトラマンが何故地球を守ってくれるのか?ご存知でしょうか? それはマニアなら誰もが知っているそうですが、第1話で科学特捜隊の ハヤタ隊員が宇宙を巡回していたところ、ウルトラマンと交通事故を 起こし、結果、ハヤタ隊員が死んだ為です。それに呵責の念を覚えた ウルトラマンはハヤタ隊員と一心同体になり、事実上ハヤタ隊員は 生きかえった状態になり、さらには地球まで守ってくれる。  確かに交通事故で自責の念を覚えるのは分かる。だが、事故は偶然 ですよ。故意ではない。それなのに、見ず知らずの地球の人類を守る 為に怪獣であるウルトラマンは怪獣を抹殺する。 その理由のみで地球人のみ守り後の怪獣は平気で殺す。 これは善意の恐ろしさを感じます。平和論者が戦争を起こすあの 論理に通じるものがあります。よかれと思ってやっていることが 実はとんでもないことをしている事がよくあります。 何より怖いのは善意の行為ですよね。本人にとってそれは善意でも 相手にとってはそれは善意どころか、死の間際かもしれない。  ウルトラマンで話を飛躍しすぎましたが、もう1つ加えます。 ある1話で科学特捜隊がアイデンティティクライシスに陥る話が あります。自分達科学特捜隊などいなくても、全てウルトラマンが 怪獣をやっつけてしまう。そこに自己の存在価値を見出せなくなる んですね。どんなミサイルをつくっても怪獣にはほとんど効かず、 ウルトラマンが3分であっという間にやっつけてしまう。 これじゃ、俺達意味ねぇじゃんになるのは当たり前ですよね。  そういう気持ちも汲み取る善意のウルトラマンはぼこぼこにして 瀕死の状態にした怪獣を自分ではとどめをささずに、ある隊員が開発した 武器で殺させてあげるシーンがあります。  1960年代は高度経済成長期を成し遂げる少し前。その時に ウルトラマンは創られた。まさにアメリカがウルトラマンにひせられる と大澤真幸社会学者は言う。  なんでもアメリカナイズすればいいのだ。なんでもウルトラナイズ? すればいいのだ!  さて、ウルトラマン的なものは善意の塊なので、非常に見なくちゃ いけない部分を覆い隠す。帰ってきたウルトラマン・・・ あーあウルトラマン(アメリカ)が帰って来ちゃったよ・・

憲法って

 憲法はルソーのいう市民の一般意思により成り立つものなので、 市民が憲法に関心がないとそもそも憲法は死んでいる事になる。 真に持って、日本の学校教育では憲法は法律より偉いものであるということ しか教えてもらえず。全く憲法とはなんたるか?が教えられていない。 なんと、司法試験合格レベルで憲法は国民が守るべきものではなく、 国が守るべきものであると分かるレベル。憲法に国民に義務を課すなど ナンセンスなのだ。さて、Aさんが作家Bさんにその表現はだめだと 禁止した。Bさんは憲法違反だ!憲法では表現の自由が認められている と訴えたとする。できるか?否。私人間で何をしようと憲法違反をする 事ができない。憲法違反をする事ができるのは統治権力のみ。  これが真に理解できれば司法試験合格レベルだそうだ。憲法の根本の 根本のところであるからだ。自分もまだまだ理解できないし、憲法意思など 興味なんていくのは困難である。市民が憲法意思をなすには偶然がかさなら なければいけない。憲法についてしゃべること聞く事。これが憲法。 憲法を改正することが大事なのではなく憲法についてコミュニケーション することが憲法意思を形成する。  現在は小泉純一郎首相の分かりやすい政治、失政により憲法について 考えるには格好の時期である。  さて、憲法などどうでもいいと思う事もまた憲法意思の一つである。 自分もその一人でもあり、違う一人でもある。 そうやって憲法意思などころころ変わる。 当たり前。たまたま一致したら憲法改正。 結構偶然性が支配しているんですよね。政治って。 人生も偶然性が跋扈していたりする。それってオモシロイと深い 感銘を時に覚える。

イスラム教VSキリスト教

 神はアブラハムにカナンの地を与えたたまうことを約束した。神の命令は 絶対であり、カナン(現在のパレスチナ)はアブラハムの子孫に与える事 が旧約聖書により定められている。アブラハムの長男イシュマエルは正妻 ではないハガルの子で次男は正妻サラのイサク。このイサクこそ、イスラエル 人の先祖とされる。イシュマエルはアラブ人の先祖とされる。さて、神は イサクには乳と蜜の流れる地、カナンの地を与えたまうことを契約したが、 イシュマエルには部族の繁栄を約束したものの、土地を与える契約はしてい ない。ここが現在のパレスチナ紛争の要。いや、イスラム教、ユダヤ教を 理解する上でも最重要な事である。  我々日本人は宗教音痴でどうも、イスラム教やら、キリスト教やら 摩訶不思議。なんかどーでもいいというのが大半であろう。 自分もクリスチャンだった時期があるが、日本のキリスト教は日本流 キリスト教と化している。なにせ、教えたらまずいところは教えないの だから。一言断っておくがキリスト教批判をしたいのではなく、何故、 イスラム教徒はあのように振るまい、クリスチャンはあのように振舞う のか、ユダヤ人はあのように振舞うのか、理解の付箋としてかくのである。  神の命令は絶対なので、神が契約したことは必ず果たされる。 モーセの遺志を引き継いだヨシュアを見よ。カナンの地を奪取 するために、神の奇跡に助けられ、神に助けられ、老若男女問わず、 虐殺(ジェノサイド)の嵐である。イスラエル人達がエジプトで 奴隷生活を何百年と続けるうちに、もちろんカナンの地には先住民 達が住みついている。だが、神はイスラエル人にカナンの地を約束 したのだから、先住民がジェノサイドされようとおかまいなし。 ヒットラー顔負けのジェノサイドである。何故、神はイスラエル人のみ を優先的に寵愛し、異民族虐殺を命令したのか?その判断基準は あるのか?答えは否。である。全くの神の任意。  聖書などとというとおとぎ話ととらえる向きもあるが、信者達には れっきとした史実となりエトス(行動様式)となる。その為、現在でも イスラエル人達は何度にも渡る中東戦争などカナンの地を死守するために ジェノサイドはよしとされる考えが根底にある。    さて、一方アラブ人は?好戦的と思われがちであるが、キリスト教とは 違って宗教的寛容が徹底している。イスラム教アッラーの神を信じる、 信じないは個人の自由。キリスト教のように異民族、異宗教だからといって ジェノサイドのようなことはしない。意外や意外。さらに、小室直樹氏 に言わせれば、イスラム教こそ、最も宗教らしい、宗教とおっしゃられる。 エトス(行動様式)が全てコーラン以下、スンナ等に全て定められている からだ。近代社会、民主主義全てキリスト教国家から生まれた概念にすぎず、 キリスト教は無規範宗教で政治とは隔離されている。一方、イスラム教は イスラム教の規律(命令)=法律。まさに政治と宗教が一体なのだ。 近代社会とは正反対の社会なのだ。イスラム圏に近代国家を創ろうとすると 失敗するのは、宗教と法律が分離し、自由になるため、イスラム教の規律と 抵触するからだ。果たして、近代社会=キリスト教国家。がよいのか?  民主主義、近代化を盲目的に是と信じると現代のようなイラク戦争のような 悲劇を生む。イスラム社会では禁酒が何故守られているのか? それは神のグレイスに与れたものは死後エデンにおいて、酔っても酔わない、 二日酔いにも気持ち悪くもならない、気持ちがいいだけの美酒を味わえる と信じているからだ。さらに神が用意なさる処女を失わない美女と性交渉 やり放題。宝石、貴金属や豪華な食べ物も食べ放題。ここまで来ると 笑えてきますね。  日本においては近代化はすんなり済んだ。何故か?無規範国家、無宗教 国家、空気(ニューマ)が支配する国だからだ。  宗教を理解することは世界情勢を把握する上で大切だ。 一方日本のような無宗教国家。なんだかそんな日本に愛着を覚えて しまう自分もいます。  どういう世界がよいのか?答えはありません。ただ思考停止せず、 実情を見据え、思考を続けていくのは忘れてはならないと思っています。

手打ち

 靖国問題。小泉純一郎首相。個人の信念を通すのは大切だ。小泉首相は 自民党主流の経世会と対立し、敗北した元福田赳夫の教えを受けている。 その個人的な実存があるのか、経世会をぶっつぶすのには成功した。 小泉は壊し屋としてはよくやったが、その後のビジョンがない。  中国の反日感情。南京大虐殺。あのような大虐殺戦前には日本、欧米は おろか、中国側も主張していなかった。だが、戦後東京裁判以降に急に 捏造されたものだ。色々な証拠があるが、大虐殺当時南京の人口は 多く見積もって20万人。それであるのに、40〜50万も大虐殺 できるわけはなかろう。これだけでも証拠は十分であるが、日本は 大虐殺(ジェノサイド)をしない民族だ。ユダヤ人の旧約聖書に 出てくる神の命令によるヨシュア率いる異民族の老若男女問わず、 ジェノサイドから始まり、秦の始皇帝のジェノサイド。大航海時代 のポルトガル、スペインの異民族に対するジェノサイド。アメリカの インディアンに対するジェノサイド。そして、ドイツによるユダヤ人 に対するジェノサイド。世界を見るとジェノサイドがあたかも当たり前の ように起きている。しかし、日本ではそういう例がない。  ドイツのニュルンベルク裁判においてナチスにおけるユダヤ人ジェノサイド を理由に戦犯とすることができたように、日本においても日本が当時の 国際法において、罰する為にあくまでもジェノサイドが必要だった。 捏造もいいところだ。  それはそれとして、靖国問題なる中国に対する問題はサンフランシスコ 講和条約、日中共同声明によって解決したはずであった。 大体、世の中完全に納得するなんてことあるはずはない。 だからここでヤクザのような手打ちが出てくる。 確かに戦争の責任を全てA級戦犯のせいにするなんて間違っている。 A級戦犯扱いした人も浮かばれないだろう。だが、それでは先に 進まない。だから、事実は違うけれども手打ちとして戦争責任は A級戦犯になすりつけ天皇他日本国民の戦争責任は免除してくれとしたのだ。  世の中複雑なので、納得いかない事ばかりだ。だからこそ、まー納得 できないが、そういうことで手を打ちましょうとシンプルにして納得する しかない。忘れてはならないのは手打ちをした事実だ。小泉は忘れた。 反日が起こる理由は中国の民の自国の共産党に対する不満の現れが 主たる原因と考えるが、靖国問題は大きな外交カードとして使えるはずだった。 まー今後参拝するのはやめる代わりに、国連の常任理事国入りの承認を して下さいという外交的戦略に使える事もできた。そこまで考えて 政治を行える政治家ではないのが小泉さんだが・・だが、壊し屋として よくやった、感動した。  さて、世の中納得いかないことばかりだと思いますが、いちいち納得 いかない、いかないでいたら遅々として進まないので、まーそういう 事にしましょう!というのがコミュニケーションで大事な事だ。  納得いかない文章だけど、まー更新したのには変わりないから これでいいと手打ちしますか?笑

ジョゼと虎と魚たち

ジョゼと虎と魚たち(通常版)の画像  「ジョゼと虎と魚たち」は妻夫木聡演じる恒夫と 池脇千鶴演じるジョゼの恋愛ストーリー。 恋愛映画は事実とはかけ離れた夢見た幻想ストーリーを描く事が 多いが、この映画は違った。すこぶるリアルに近い形で恋愛というものを 描いている。  恒夫は話も上手でエッチでもてもてな大学生。ジョゼは足の不自由な 学校も行けず、孤独であるが、したたかな気丈な女性。足が不自由だから といって舐めんなよ!とばかりに散歩に行く際は包丁を持っている。 恒夫とジョゼが最初に出会うシーンでも危うく包丁に突き刺されんばかりの 気丈さであった。  恒夫はそんなしたたかで散歩して花を見たり、動物を見たりするのが好きだと いうような可愛いジョゼの面に惹かれていく。足の障害を持ってい たため、なんとかしてあげたいと思ったのかもしれない。 心を閉ざしていたジョゼであったが、恒夫のようなまっすぐな人間には 徐々に惹かれていった。 だが、元恋人に恒夫には障害者を介護できるような柄じゃないわ!と 嫉妬のように言われる。  恒夫とジョゼの初めての旅行。暖かなエピソードもあったが、恒夫が ジョゼをわざわざ背負うのに嫌気が差しているシーンが印象的。  思い出が濃縮された旅行であったが、その後暫くして二人は別れる。 別れた理由は・・・と恒夫は回顧する。色々あるが、それは言い訳で 理由は一つだ。自分は逃げたのだ!と。  逃げた事を宣告した恒夫。振られたジョゼ。敏感なジョゼは恒夫が 逃げた事など分かっていただろう。だが、あの楽しい恒夫とジョゼの 実存的な世界観は残りつづける。ジョゼはさらにしたたかになった。 ある切なさを込めて・・・  この映画は池脇千鶴は裸体のシーンを堂々と見せた事でも有名だ。 それも一情報として付け加えて置きます笑

オープニング・ナイト

 天才監督ジョン・カサヴェテスの代表作の一つ「オープニング・ナイト」 は今思い出しても凄まじさを感じる。  主人公のマートルは人気の舞台女優。楽屋口から出てきたマートルに ファンは群がる。その中にナンシーと名乗る少女がいて、I LOVE YOU! を繰り返す。だが、後ろ髪をひかれる思いで車を走らせた時、マートルの 乗っている車に目を奪われたのか対向車線から来る車にナンシーは轢かれ 即死。マートルはこの死をきっかけに舞台でもうまくいかなくなり、また、 苦悩も大きくなり、酒の量も見る見る増えていった。  女優マートルの悩みは老いだ。準備中の舞台劇「2番目の女」はまさに 老いにさしかかってきた役を演じ、まだまだ私は若いは!という役を 演じる。悩みを投影しているような作品なので、その苦悩は想像に難くない。 マートルにとって、ナンシーは苦悩の始まりとなったが、それは潜在意識を 呼び覚ましてくれた第三者の審級なる神様という視点でとらえてよいかも しれない。  女優マートルにとって老いは最大の苦悩だ。そこへ若いナンシーと出会い、 そして彼女は若くして死んだ。若い姿のまま死んだ。それが嫉妬か? 「2番目の女」の出演は酒を大量に飲み、泥酔していたので、劇中止 の騒ぎとなっていた。だが、その直前彼女はナンシーの幻想を見る。 そして、マートルは神様のような存在のナンシーを殺害する。 ナンシーは2度死んだのだ。しかし、その行為によって、 マートルは何かが止揚した。泥酔でまともに歩けない姿で 舞台に出る。そしてそこには常に良き理解者であったジョン・カサヴェテス 演じるモーリスがいた。 泥酔でまともに台詞などはしゃべれず、全てマートルはアドリブ。それに 対して、モーリスもアドリブで返す。映画の中でアドリブの劇を観るその エンディングは臨場感を持って迫ってくる。 マートルは老いを受け入れたのだ。
プロフィール

Author:まさみ
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パソコンできる環境が作れず、こちらのブログのほうがスマホでも扱いやすいからです☆

よろしくお願いします。
⊂⌒っ*-ω-)っ

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