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ユリイカ

ユリイカ(EUREKA)の画像  2000年のカンヌ国政映画祭で国際批評家連盟賞とエキュメニック賞を受賞 した「ユリイカ」3時間37分という長編映画。舞台は九州の地方都市で起きた バスジャック事件で辛くも生き延びたバス運転手・沢井(役所広司)と、 乗客の直樹(宮崎将)、梢(宮崎あおい)の兄弟を主軸に物語は進め られていく。ちょうどこの映画は佐賀のバスジャック事件と重なっており、 示唆に富んだ映画となった。  バスジャック事件の2年後、生き残った3人は再び再開する。二人きり で暮らす直樹と梢の元を訪れた沢井は一緒にひょんとしたことから 3人の共同生活が始まる。そんな折、夏休み中、従兄の秋彦を加え、 4人の生活となる。事件後、生きる事に底が抜けてしまったかのような 状態の兄弟。そして描かれていないが、空白の2年で何があったのか、 分からない役所広司演じる沢井は既に脱社会化した、一風変わった 人物となっていた。ショックな事件の後、運転手の職も失った彼では あったが、その2年でタフネスさを得た何かを彼が身につけているように 感じる。生活を続ける内、謎の連続札事件が起きる。一風脱社会化していた 沢井が真っ先に噂話であいつが犯人ではないか?と疑われる。  どこか鬱屈した4人の共同生活の中で沢井はトラウマはあったが、小さな バスのようなもので4人で当てもない旅に出発する。 モノクロ映像の中でただただ田舎の道の映像が車に揺られながら流れ続ける。 3時間37分という長編だが、このモノクロでゆらゆらと揺れる風景の中で ある種の催眠状態に陥り、時間を忘れさせてくれるような感じになる。 つまらないから眠くなるのではなく、心地よいけだるさを感じる。  旅の途中、連続殺人事件の犯人が兄弟の兄貴だと分かる。 沢井はそれを受容するわけでもしないわけでもなく、こう言い放つ。 「いきろとは言わん、ただ、死なんでくれ!」 この沢井の言葉は矛盾しているが、兄貴の心には響き兄貴は素直に自首する。  曖昧な時代の中でこの曖昧な映像の中で曖昧なままタフネスに生きる 沢井が力強さを与えてくれる。  長編映画だが、短く感じるこの映画は曖昧な時代、時間感覚を 豊かに感じさせてくれる。
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理想

 理想にも2種類ある。まずは現実可能である事を想定した理想。もう1つが 現実可能ではないが、虚構の理想。前者を時代に当てはめれば高度経済成長 までの時代。前者の現実の理想は連合赤軍事件を象徴として終焉したと よく言われる。一方後者は連合赤軍事件以降オウム真理教による地下鉄 サリン事件の時代までをさすと指摘する思想家がいる。  問題はこのオウム以降の虚構の理想である。虚構だけで満足できなくなり 再び、非現実的とも思える虚構を現実に変える術に変えようとするのだ。 オウム真理教が無理やりハルマゲドンを起こそうとしたように・・・  現代はこの3つの時代の流れの中で様々な潮流が出ている。オウム的な 虚構の理想を現実化することはやはり問題があると思われる。 そこで一線を越えない為にはどうするか?  現実可能な理想を持つ事も虚構の理想も十分な享受を自分に与えてくれる。 二者の区別をほどほどにしておくとよいと思われる。 虚構の理想が自分の理想でこれを実現しなければと強迫的になるのは とても辛いことだから。虚構の理想は理想で楽しみ現実化できる理想は 辛くても目指す価値はある。

凶気の桜

凶気の桜の画像  映画「GO」で窪塚洋介が演じた在日3世の役は、映画自体は恋愛映画と いうものの、北朝鮮籍にするのか?韓国籍にするのか?とある種の アイデンティティを扱う部分に対して窪塚はいらだっていた。 くだらない。国籍ごときでアイデンティティなど決められてしまうのは。 「GO」の窪塚は軽やかに演じていた。  一方、窪塚自身も企画に携わった「凶気の桜」は軽やかに日常を 送れなくなり、実存と社会を結びつけた。いや、社会というよりも 世界と呼んだ方がいいのかもしれない。窪塚演じる山口は右翼思想に べったりひたり反米主義で、その辺の街で意味もなく暴れる不良ども を狩るネオトージョーを結成して次々に圧制していった。  窪塚的な日常をまったり送れるべく見えるものも「GO」以来特に 政治的なメッセージ、窪塚思想を語り出す。今の若者は政治に関心がない と言われるが、案外統計を取ってみるとある若い世代の層は特に政治に 関心が高いようだ。この現象が全共闘時代のようなろくにマルクス主義に 関する本も読まずに騒いでいた世代のようなものを繰り返す危険性は ないとはいえない。だが、政治に関心が増えているものがいるのも 実情で、そういう話ができる議論の場が必要だ。当面、一般大衆の 場合ブログということになるだろうか?  政治に興味を持つのは実存に自信がないから大いなる崇高なる国に 一体化したい為に、興味を持った場合危険をはらむ場合もあるが、 この映画ででてくる「歴史がねぇからモラルがねぇんだよ!」という 歴史認識の欠如に劣等感を感じて出ている言葉なら期待は寄せられる。 ただ政治に興味を持つ奴は偉いというわけではもちろんない。 あまりに若者は政治に興味を持っていないといわれるから、それに 対する反発心であった。  「歴史がねぇから、モラルがねぇんだよ!」

自分に環境を合わせる

 高度成熟社会、高度情報化社会になったがゆえに、あまり身体を動かさなく なった人がかなりの勢いで増えてきている事であろう。便利なもののお陰で 特に身体を動かさなくても移動したり、情報を得る事ができるようになって いっている。そこでは、ただただ頭だけが働いているのであろうか?  いや、特に神経症の諸症状でお悩みの方は、頭の働きすぎで神経症に なっていると思っているかもしれないが、この身体に現れる身体性にこそ、 目を向ける方が実は重要になってくる。人に対してひどく緊張する。 胃が痛い。赤面する。苦しい。これらの諸症状は主に観念で起きている 事ではなく、身体で起きている事だ。特に注目して欲しいのが、生まれつき 緊張しやすかったり、胃が弱かったりした場合、そういう身体の特徴が 自分自身の思考を形作っている点が多い事を見逃してはなるまい。    緊張しやすい体質を持っていた故に、観念的に人が怖いと思うようになる。 育つにつれ、観念的に人が怖い理由を理屈をつけて増殖させていく。 人が怖い理由は確かに理屈ではみつかるかもしれない。 だが、例えば対人緊張症の人なら、長年体にしみついた緊張しやすい 体質はいくら考え方を変えてみてもそれほど変わらない。  呼吸方法などで緊張しやすい体質を変えようにもそうやすやすと体質は 変えるのは難しい。そもそもがそういう変えよう、変えようとする姿勢に 無理があると自分は思っている。自分を変える本のような類の本がよく ベストセラーになるが、自分を変えるということは今の自分を否定する事 だ。今の自分の身体を否定する事。これでは、現実との乖離が進むばかり。 果ては否定された自分は心の奥底で蠢いている事であろう。いくら変わる 事ができたとしても。  だからこそ、そもそも持っている自分の体質を受け入れる事が大事である。 その体質を受け入れ、その体質でもいられる環境に自分を置いてあげるのだ。 環境に自分を合わせるのではなく、自分に環境を合わせるのだ。 平たく言えば、ありのままの自分を受け入れるということだ。 日々、人は何かは変化していることであろう。だが、その人の実存はその人 特有だ。いつどういう時に初めて笑ったのか、泣いたのか全て異なると 同じように・・ そういう実存のままで生きれる環境づくりに専念する。 これは甘えているように聞こえるかもしれないが、環境づくりをしていくので、 かなりの行動療法と言えるであろう。 仕事、家族関係、夢、住まい、人間関係等々をかなぐり捨て別の環境に 自分を置くことが要求される事も多い。  自己改造を努力するのもいいが、自分の周りの環境を変える。自分の ファッションを変える。外部を変える事が本来あるべき自分を開花 させることも珍しくない。実験的にでもよい。今までの経験の中で、考え、 今の自分のままでどのような環境に置けば自分が楽にそして生かされて生きれる か考えてみると面白いかもしれない。 人生は楽に楽しく生きたいですからね。自己改造だけで人生終わっちゃ 悲しいですよ。今のままの自分で楽しめる道。あるはずですよ。 人によりけりだと思いますが。

プロ野球

 自分は幼い頃は野球少年で、人付き合いが苦手なため、地元の野球 クラブ(サンダース)に入れなかったが、グローブやバットを買ってもらった 時は大喜びであった。1人で壁とキャッチボールよくしたなあ。 人苦手だけど遊びの野球の試合あるとよくみんなで野球した。 野球が好きになったのは実家の近くに西武球場があり、かつ秋山幸二選手の 大ファンであったからだ。ドーム球場になる前の西武球場は雨で中止になる 事も何度もあったけな。芝も人工芝ではなく、天然芝であったような気がする。 大リーグの松井が日本のプロ野球に増して守備で魅せるのは天然芝の おかげである。天然芝なら、思いっきりダイビングキャッチをやっても 怪我をする心配がないから動きもダイナミックになる。大リーグの選手達は 東京ドームなど人工芝で試合をするのを忌み嫌った。怪我をするからだ。 さらにドームでもなく、天然芝こそ、自然に左右される野球ができる。 風に左右され天候に左右されるいわば偶発性に基づくゲームが行われる。  初めからある程度結果の分かる試合など面白くもなんともない。 サッカーのようにたとえゴールポストに当たっても0.5点入るわけではなく、 シュート何本打っても得点にはならない。実力はもちろん関係もしてくるが、 偶発性による勝敗の結果を何度も人々は見てきたはずだ。ドーハの悲劇を 象徴的に。  日本以外の国がどうしてあそこまでサッカーに愛国心を持てるのか? それは特にヨーロッパでは国が支配されたり、支配したりというのは 偶発性によるものが多かったからだ。何度も何度も支配・被支配の行為 が行われ、偶発性のオンパレードである。ナポレオンは確かに優秀で あったが、彼にも偶発性によって勝てた面が少なくない。 その偶発性が念頭にあるからこそ、戦争とある種重ね合わせ、サッカーを 観戦する。偶発性によって勝ったり、負けたり、なんと不条理で興奮する 事柄ではないか。ジーコジャパンだって、どうなるかわからないですよ。 偶発性の面が多いサッカーでは優勝もありえなくはない。  プロ野球も去年パリーグがプレーオフ制度を行い非常に盛り上がった。 いくらペナンとレースで何10勝もして、1位になったとしても、 プレーオフで3位のチームに負ければ日本シリーズには出場できず。 余裕でペナントレースで1位であったのに、たった数回負けただけで 優勝できないとはなんと不条理なことか?いや、だからこそ、ゲームの 面白さがある。こういう不条理なルールがないとウンチク野球ファンしか いなくなる。こういう選手がいて、こういう監督で・・っとプチ評論家 が跋扈する。ウンチク野球ではなく、サッカー的な野球へ・・  現在のセ・パ交流戦も初めて当たるピッチャーと対戦したりして分析が 難しい面が多く、見ていて非常に興奮する。ゲームはやはり偶発性が なきゃいけない。そして、人生にもふと偶発性に気づくとおもしろかったり するものだ。

敵は内にあり!

 高度成熟社会では、コンビニ化・個室化・情報化が進み特に人とコミュニケ− ションをとらなくても、生きる事ができるようになったゆえ、「隣の人は 何者ぞ!?」現象が加速度的に進んでいる。このような時代になると個々が ばらばらになり、誰が何をやっているか分からないという不安が生まれ、 その不安故に監視下社会を要求する声が高まる。いたるところに監視カメラを つけることに要求が高まっている。いたるところに監視カメラをつけられると 気持ちが悪いと同時にちょっとした悪いことをする自由や人に見られたくない 事もしにくいし、監視されているというだけで、楽しむより不安ばかりに 目が行く傾向になってはしまいか?  これに拍車をかけたのがご存知、9.11同時多発テロであった。 旅客機一つ乗っ取れば全世界どこでもあのようなテロを起こせる。 さらに最近では小型核爆弾を開発したとかしないとか。そのようなもの 裏市場で出回れば、国内にいようと、いつどこでテロに遭うかもしれない という不安にさいなまされる。そこで短絡的な重罰化、違法とも思える イスラム教徒というだけでアメリカは拘束したりしてるとかしてないとか・・  敵といのは通常外にいるものであったが、今や内外問わない。 その敵を抑圧するために、いくら監視社会を推し進めようとも、 監視する側の人間になってしまえば、テロはいつでも起こせる。 例えば、テロ目的で軍事関連の職業に就き核のボタンも押せるような 立場になれば、いくら監視しようと仲間内に敵がいるのならどうしようもない。  リヴァイアサンと呼ばれた国家が怪物なのではなく、社会が怪物。 国家より社会の方が怖いと感じるものが増え、怪物であったはずの国家に 頼る傾向がある。近代国家はリヴァイアサンである国家の暴走を止めるために 憲法をつくり発展してきたのだが、今や社会がビヒモスなる怪物ではないか? だが、日本人は国家の暴走体験がほとんどないが、ヨーロッパ諸国では フランスで起きたロベス・ピエールによるギロチン政治による恐怖政治 など国家の恐ろしさを肌で知っている。  国家の恐ろしさを忘れず、社会の問題は社会でなるべく解決できるような 社会。ディスコミュニケーション化した社会にならない構想が必要と感じる。 コミュニケーションは今や多様化、対面した会話から携帯、インターネット などなど。どうにかコミュニケーションを機軸に不安ではなく、人を信頼 できる社会にしていかないとバランスがとれないと感じる。

寄生獣

寄生獣 (1)の画像
 17〜18歳頃に読んだ「寄生獣」
これは未だに理論的に説明できない
深い洞察を含んだ漫画であった。
人間(新一)の脳に寄生しようとした
寄生獣は失敗して右腕に寄生してしまった。
一方他の寄生獣達で人間の脳に寄生する事に成功した寄生獣は
生きるために人間を食べる。
新一に寄生したミギーは新一に、餌を食うのは当たり前ではないか?と
新一に冷たく問いただす。寄生獣は恐ろしいほどの殺戮能力を
持っているが、その人間が死んでしまえば自分も死んでしまう弱い存在とも
言える。餌として人間を食べる。確かに当たり前のことだ。

 だが、新一の目の前で母親のみならず、次々に殺戮事件が起こる中で
新一は人間の為に、ミギーとともに闘う。ミギーは何故闘うのかよく
分からないようであった。ミギーが寄生した新一は複雑な存在で、
ミギーの同種である寄生獣を殺すことさえも苦悩する。そして、愛するもの
が死んでも泣けない事に苦悩する。泣けない苦悩自分も陥った事があるので、
泣けない苦悩を見て思わず、自分は号泣してしまった。

 人間だって、毎日肉を食べるために大量に牛や豚を殺し、魚を食べるために
大量に魚を殺戮している。寄生獣が食べるために人間を食べるのも決して
おかしいことではない。
 
 おかしいと思うのは人間中心主義があるからである。人間とは?動物との
違いは?ラカンの言葉で言えば人間には象徴界を持っているからか?
だったら、ネアンデルタール人のような前頭葉は発達していないがイメージを
司る後頭葉が発達していた人種は人間なのか?動物なのか?
宇宙人がいるとしたら、彼は人間なのか?動物なのか?
どれもが生き物であることには変わりがない。自己の種族の保存を守る為に
生きているに過ぎない。そこはどの種族にも共通している。
その生き物の種類の中のたった一つの種類が人間に過ぎない。

 人間中心主義は特に宗教に現れているので、動物にもいくらかは配慮して
欲しい。自己の種族の保存しか考えないのが生き物の宿命なのだから
しかたないのだから。人間中心主義でなく、このばかでかい宇宙の中で
生き物同士を相対化して考えた方が自然だ。これは動物愛護主義などではない。
生きるために今後も他の種族を食べて自分も生きるであろう。

 親鸞のようにせめて死んだら河の中で魚の餌ぐらいにはなりたいと思うが、
そううまいこといかないね。猿の惑星の世界のように1度立場が逆転した
状態を想像し、人間中心主義から解き離れて見ることは視野を広げ、
良い効果をもたらすと思う。

 ミギーは人間の良い一面をこう言っていた。「心に暇のある動物なんと
すばらしいー!」っと。ありがとう。寄生獣ミギー。

監禁事件

 世間で賑わしている24歳の男による監禁事件。彼は調教ゲームのようなもの に耽溺していたことが影響していたのではないか?そして、この手の問題は すぐに現実と虚構の区別ができなくなったとコメンテーターの発言をしばし ば耳にする。だが、この分析は明らかに短絡的である。  現実と虚構の区別はゲームや漫画やビデオに耽溺する者ほどついている。 ただ、言えるのは現実に実りがないため、敢えて虚構の世界に耽溺している と言った方が正確だ。さらに調教ゲームや調教もののアダルトビデオは 数億単位で流通しており、特に実際に事件を起こすわけではない。 交渉人真下正義でも述べたように一線を留まっているものがほとんどだ。 ここを差し違えると問題を先送りすることになる。  今回の監禁事件の詳細についてはテレビ報道によるものしか情報が ないのだが、数少ない情報で分析するならば、彼はいわゆる母親による 無条件の承認を受け続けて、育ち、全能感が崩壊しないまま育った事に 問題がある。これはフロイトによる古典的な分析である。 通常その全能感は父親的なものによって破壊される。 主にその作業が終了するのは思春期の反抗期である。全能感故の反抗心も 両親や大人達とぶつかり合う中で、自分も限界のある両親や大人達に 過ぎないと実感していく。  当事件では父親がへたれなのか、過保護的すぎでそういう反抗心も 起こすプロセスが生まれなかったようである。一概には言えないが、 男は所有欲が多い。収集マニアは大抵男である。自分も切手や ビックリマンシールを集める事で自らの所有欲、支配欲を満たしてきた。 保育園の頃などは残酷なことに死んだ虫をバケツに集めていたこともある。 今思えばかなりグロテスクなことをやっていたように思える。 だが、全能感が崩壊されることでこのような支配欲はある程度抑制 されてくる。  だが、彼はこの支配欲は肥大したままで現実の女性を支配するのが 当たり前であると思うようになっていった。特に父親なるものとの 衝突から生まれる全能感の崩壊は早ければ早いほど良いと改めて 感じたのである。

交渉人真下正義

公式ガイドブック『交渉人 真下正義』完全FILEの画像  現在公開中の「交渉人真下正義」踊る大捜査線シリーズは大好きなので、 楽しみにしていた映画でもあります。まだ見ていない方は多少ネタバレ も書くので、読まないでくださいね.  前回の踊る大捜査線2レインボーブリッジを封鎖せよ!の1時間後 真下正義は「日本人初のネゴシエイターってなんて呼ばれていますが・・」 というインタビューの発言からこの事件は始まった。そして、1年後 事件は起こる。ちょうど尼崎での列車事故があって、非常に複雑な 気持ちで見ていたが、新型の地下鉄を乗っとった200万人の地下鉄の 乗客を人質にするかのような大規模な犯罪計画。  犯人はオタク。映画オタク。さらには電車オタクである。一方真下正義も オタクと自称していた。何者か分からない犯人と交渉する中で犯人は「真下 さんなら俺の気持ち分かってくれるよね?」と言う。交渉術としてだが、 真下正義は「俺はお前とは違う。お前は一線を越えた。だが、俺は一線を 越えず、留まり生きている。その方がかっこいいからだ。」と言い放つ。  オタクの定義も難しいのだが、オタクは悪いイメージでは決してなく、 ハッカーと呼ばれる中毒的にプログラミングをするオタク的な人達が いなければ、今自分が使っているインターネット技術、情報革命も 起こらなかったであろう。オタクはその道のプロとして社会を支えている 事も少なくない。一方社会的成功に恵まれなかったオタクはきつい立場に 置かれるが、それでもコミケなどのコミュニケーションを通していわゆる アカルイおたくも増えているのが実情だ。  ほとんどのオタクは一線を越えずに留まって人生を享受している。 ラストシーン、何者か分からない犯人は事件解決後、真下正義の 前で車の中で自爆して死んでしまう。真下は思わず、泣いた・・ 同じオタクとしてのシンパシーを感じつつも一線を越えさらに 自殺してしまった犯人に対して、複雑な心境を抱えていたことだろう。  一線を越えないために、社会が実りあると思わせなくてはならない。 捨てたもんじゃないよと。ひきこもりの方もどうせ社会なんて実りが ないと思っている。実りがなければ、社会なんてわざわざ出ない方が 狡猾な選択肢だ。  実りある社会のモデルが今は構築できていないのが現状だろう。 だが、アルバイトでも何でもいい。たった1歩踏み出すだけで、 何らかの実りはあるはずだ。そういう社会を創っていくのは 創造力が必要。自分の生きている間のことだけ考えていたら難しいだろ。

偽トラウマ体験

 我々は多くが神経症である。程度の差があるだけで、人の目を気にし、 自分なりに勝手に解釈するのは大なり小なりあること。たまたま日常生活 に支障をきたす神経症的な兆候が見られた場合治療の対象となる。 たまたま日常生活に支障無い神経症的な兆候を持っている場合は何気なく 生きていく。それだけの違いで、それは偶然性のものだ。 そこで、いくら神経症の症状が重い人でも重くても日常生活に支障のない 環境に自分が置ければ、全く問題無く過ごせる場合もある。 現代精神関連の病気は軽症化傾向にあると言われる。 それは神経症的な兆候とはほとんどの人が持っているべきもので 特筆すべきものではないという理解が全般的に広がっているからだ。  さて、重度の神経症やひきこもりになる原因は?と尋ねると当時いじめら れたとか虐待にあったとかレイプされたとか、様々なトラウマ原因を必死に なって探す重度の神経症やひきこもりが多く見うけられる。 アイロニカルな言い方で敢えて申しますと本当に激烈なトラウマ体験が あっての症状ならば納得はいく。そこに原因を明確におしつけられるのだから。 しかし、辛いのは多少のいじめ体験はあってもそこまでの激烈なトラウマ 体験がない場合だ。こんなトラウマがあったと慰めてくれる術もない。 悲劇のヒロインになることさえできない。行く着く先は自分がだめだから こんな症状になったのだと見当違いな方向に行ってしまう危険性がある。 そういう人達は非常に鬱屈する。催眠療法などを利用して偽のトラウマを でっちあげどうにか、安心する者さえいる。  今回は実際にトラウマ体験があった人よりもない人に向けて書きたい。 自分も一応後者に入る。トラウマ体験がなく、症状が重い場合、 自分を責めるのはやめたほうが良い。矛先を向けるときつい自分自身に いってしまいがちであるがら。むしろ生まれる両親も場所も選べないと 同じく偶然的にそういう症状を負ってしまったと考えるのが合点がいく。 そこに身を委ねるのは不条理な世界なので、不安だと思うが、不条理な 世界であるが故にばかでかい世界だ。身を委ねて安心もできるかもしれない。  宗教等で前世に君はこういうことをしたからこういう辛い状態になっている のだ!と理屈で納得する方法がある。だが、一方上記に述べたように 偶然性の不条理な世界に身を預ける方法もある。 自分は後者を選んだ。理屈では理解できないものに委ねる力。 こちらの方がタフネスさを得られると思うからだ. ただ、どちらを選ぶかは個々人の問題で、前者で楽しく生きられるのなら 前者でもいい。自分に合うかどうかが鍵。

考える力をつける本2

「考える力」をつける本〈2〉―「自分の考え」をどう深め、どう実践するかの画像  周りに合わせてばかりで、自分というものは自分だけの思考は持って いないのではないか?と思った時期がある。だが、よくよく考えて みれば、周りに合わすという事を考え決めたのは自分なのであって、 その点では自分で思考しているというアイロニカルな側面もある。  その一方、自分が自分の頭で思考し始めたと感じたのは19歳の時 にたまたま出会った本「考える力をつける本2」である。この本を読んで いかに自分が人に合わせて来たのか思い知らされたか今も記憶は新しい。  かといって思考というのは様々な人と出会い、影響し、形作られる ものであって、一概に人に合わせてばかりいるというのも決して無駄な 作業ではなかったように思える。  以前思考には基本が大事だと書いた。基本をそれが良い、悪いは別にして 人に合わせる事で学んできたのだ。今やその基本を逆手にとって、自分で ものを考えられるようになった。  自分で物を考えているようであって、人は某かの他者や自然界の 影響を受けて成り立っている。つきつめていけば自分とは無に過ぎない のではないか?ということになるが、それは極端過ぎるので、そのような 影響という不自由さを認識し、自由な思考をすることができる。 全て自由と感じていたら自由という概念すら思いもよらない。 不自由さを知ってこそ、自分の自由が分かる。  かなり抽象的で自分の実存に満ちたコラムになりましたが、自分の場合 基本を学ぶのが長すぎた。早く見積もって19歳まで遅く見積もって 26歳まで基本、基本。「考える力をつける本2」はまず、自分が別に 思考停止ではなかったのを気づかせてくれると同時に基本から応用へと 飛び立たせてくれる本であった。自分の実存で書いているので、 他の人には当てはまらないのであるが、書くということ、思考するということ はいくら客観的にしようと思っても自分の実存が入り混じるものである。 だが、そこに思考のダイナミズムがあり、ディスコミュニケーション化に ならない面白みがあるのである。

ポストモダン以後の時代

 現代は豊かな成熟社会となり、我々日本国はポストモダンの時代になった と言われる。いわゆるポスト(後)モダン(近代化)の時代に入ったという 事である。さらに現代はポストモダン以後の時代とも言われる。 いわゆる高度経済成長の頃は豊かになれば、アメリカのような幸せな 人生が歩めるという理想があった。1960年代の頃はSF作品も 盛んで21世紀には科学が素晴らしい世界を構築してくれるという 夢があり理想があった。  しかし、一旦近代化を遂げてしまうと、豊かになるという理想が 現実化してしまうい、目標を失い、アノミー状態に陥る。 科学万能主義が空虚であることも分かってしまっている いわゆる虚構の時代に入った.虚構の時代こそ、ポストモダンの世界。 だからオタク文化が流行り、ゲームが流行り、漫画が流行り、音楽が流行り、 映画が流行る。特にわが国は無宗教国家であるから、深い大きな物語を 共有してなどおらず、個々がばらばらに活動している。 虚構に充足感を満たし、消費に充足感を満たす。  だが、1995年地下鉄サリン事件のオウム真理教の犯行以後、様相は 一変。さらに9.11テロでさらに一変。ポストモダン時代以後の世界が 立ち現れた。いわゆる現実からの逃避(虚構)から現実への逃避(?)である。 虚構だけでは満足できなくなった代わりに現実で極端なハルマゲドンのような 現実感を味わおうとしたオウム真理教信者達。自傷行為(俺のような酒で 自分を破壊することも含まれる笑現在禁酒7ヶ月目)に代表される現実で 何かを起こすことによって、しかも極端な事を起こして、自分を確認する という時代に入ったように思われる。極端な現実への逃避は米英のイラク 戦争も含まれるであろう。  個々がばらばらになると、自分という存在はあなたであったかもしれない という入れ替え可能性を前提にした共感するということが難しくなる。 たまたま日本に生まれたからどうにか民主主義的なものが分かった気に なっているが、北朝鮮に生まれていたら金正日を大賛美してても おかしくない。この入れ替え可能性こそが公共の原則で、 立場が入れ替わったら、自分は耐えられないのならそれは公平な国ではない ということだ。 入れ替え可能性を感じる感受性が難しくなる中で現実への逃避を行う時代 であるならば、様々な対処が必要だ。  この世界は不条理に満ちた遇有的な世界。この事を前提にそれに耐えうる ような遇有的体験をしていかなければならないのだろうか?

ライムライト

ライムライトの画像  チャールズ・チャップリンの映画「ライムライト」ライムライトはスターに 当てられる光の事である。若き日大スターであったチャップリン扮する カルベロは年老いて、既に売れない芸人となっていた。 そんな折、自殺を図ろうとしていた女性を救い、喜劇役者と思えぬ 語り口やしぐさで彼女に生きる意欲を抱かせた。 喜劇役者だからこそ知る人生の悲劇。悲劇を知るものこそ、ユーモアも 生まれてくるのかもしれない。喜劇と悲劇は表裏一体とよく言われる。  彼女はカルベロを愛した。しかし、こんな老いぼれで売れない芸人など と一緒にいては不幸になるだけだと、1人、彼女を置いて去ってしまう。 去ったカルベロはどこにいても全世界が自分にとって舞台だと小さな バーなどで芸をやっていた。  カルベロには分かっていなかった。愛とは年齢や外見とは全く無縁で あることを。愛とは何か?は人それぞれ違う捉えかたをするものであるが。  最後のカルベロの記念の大舞台。カルベロを愛したバレリーナの彼女は さくらまで用意して、カルベロの芸を笑ってもらい、彼に自信を取り戻して 欲しかった。自分としてはさくらを使って笑ってもらってもカルベロに とっては本当に嬉しいことなのか?と思うが、たとえさくらであっても カルベロが昔のライムライトの光を浴びていた頃の気持ちが味わえるので あれば、それはそれでいいのかもしれないとも感じる。  カルベロの最後の芸はさくらで笑う予定であった人でさえも自然に笑って いると思われるぐらいの面白い芸であった。この際客がさくらであろうと さくらでなかろうと、どうでもいい気にさせてくれた。さくらであったら、 悲劇であるが、さくらでなかったら喜劇だ。だが、さくらであったら、 喜劇であるが、さくらでなかったら悲劇であるとも言える皮肉がある。 彼はこの芸の後すぐに死んでしまうのだから。    カルベロは言っていた。死は避けられないものであるが、生もまた 避けられないものであると。それを実感したものは、ある種超越し、 チャップリンのようなユーモアが生まれてくるのであろう。 ユーモアは悲劇を喜劇に変える。悲劇なくしてユーモアなし。 このアイロニカルな現象に深い感銘を受ける。

ドッペルゲンガー

ドッペルゲンガーの画像  黒沢清監督の「ドッペルゲンガー」役所広司演じる早崎はノイローゼ気味 の科学者であった。本来自分がしたいと思っていたことができずに、 いらいらしながら、発明品を研究していた。過去に偉大な発明をし、 会社はその利潤でもっていたようなものだが、今やもう過去の話。 期待はされていないが、会社も過去の功績があるゆえに、研究費を 投じていた。  そんな折、早崎は自分の分身であるドッペルゲンガーを見てしまう。 最初は幻想であったと思ったが、同じく弟のドッペルゲンガーを見たことが ある女性と出会い、徐々に信憑性を感じてくる。ドッペルゲンガーを見たもの は数日中に死ぬという・・・  早崎の分身のドッペルゲンガーは早崎とは対照的であった。 ドッペルゲンガーと言ってもこの映画では普通に会話もできる存在として 描かれている。対照的な代表的な例として早崎が「俺は名誉も女も金もいら ない」と言ったのに対し、ドッペルゲンガーは「いいぜ!それを全部俺が もらってやるんだ!」と言い放つ。 そう、ドッペルゲンガーは早崎の善悪の区別はできないが、敢えて区別すると ダークの部分である。しかし、人は自分の心の中のダークの部分を見なさす ぎる。今の時代は特にそうなのかもしれない。  イイ人も悪い人もダークの部分は総量は同じだという説がある。 ラスト近く、早崎はドッペルゲンガーにこう怒鳴られる。 「俺は俺の中のお前を受け入れた。だからお前もお前の中の俺を受け入れろ!」 っと。困惑した早崎はドッペルゲンガーを殺害してしまう。    そこから早崎は自由気ままな人間になる。無理をしない人間になったと 言うべきであろうか?ダークな自分も受け入れて、バランスがとれたの だろう。せっかくようやく成功した発明品も金、金、金の企業の連中の 前で殴りつけ、渡そうとせず、結局発明品は海の底へと沈める。  アカルイと思われる事、ダークと思われる自分の部分バランスとれてみれる とそのままの自分で生きられる。ダークさに目を背ける傾向がある時代性も 感じないわけではないので、この映画は非常に示唆に富む。 また、黒沢清監督らしく、ホラー映画に見えない、エンターテイメントも 提供してくれるので、面白いです。

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 マクドナルドの椅子が何故固いのか?それは客の回転率を上げている 為である。さらに真偽のほどは確かではないが、混雑時にはBGMの ボリュームを上げて、客に不快感を与え、これもまた客の回転率を 上げているとさえ言われる。  椅子が固くて尻が痛いから長居したくないから、帰る。BGMがうるさい から帰る。まさに人間の快・不快の部分である動物的な部分を刺激して 管理したマーケティング戦略である。    だが、我々は普通そんなことに気づかずに動物的な本能でいつのまに 管理されてしまっている。このような管理体制はマクドナルドだけでなく、 高度技術社会、監視社会においては様々なところで起きている。  2ちゃんねるの匿名掲示板は匿名とはいいつつ、ログは残り、真に匿名 とは言えぬ。街を歩けば携帯電話を携帯しているため、いつどこであなたが どこにいたのか全て記録が残っている。携帯電話の位置特定機能で調べる 事で、犯罪者の検挙率が上がっているのが良い例である。  ここまで技術が高度化していなければ、人は匿名化できた。街を歩けば、 自分が右へ曲がろうと、左へ曲がろうと、それは大群衆の匿名の1人であり、 自分でなくても、右へ曲がる奴はいるし、左へ曲がる奴はいる。 匿名化することは非常に楽なことであり、これが技術によって匿名性が 排除されていくのは人にとって辛いことではないか?としばしば思う。  確かにテロや犯罪を防ぐためには監視、管理型社会が必要だ。一方で 全てが管理されていると気味が悪く、別に人とのコミュニケ-ションなど 介在せなくても、管理に任せておけば、人の動物的な快・不快原則で 生きていれば生きられる。まさに人の思想の欠如。実存がある種おびやかされ る思いがする。自分の意思でなく、監視・管理によって(マクドナルド)の ように、行動してしまってしまう。  さて、スターリニズムの時代旧ソ連では共産主義の名の元に資源の配分を きっちりするために、不足分をどうにかするために、無作為に人々を逮捕して いった。数合わせのための逮捕であるから、理由無き罪によって逮捕する。 逮捕する側も理由無き罪だとはもちろん先刻ご承知。逮捕後逮捕された人に 対し、逮捕された理由を自分なりに考えろ!と迫る。例えば共産主義に 対する反抗勢力などなど。そうではなくとも、確率論的に反共産主義 になる確率は誰でもあった時代であったので、逮捕されたものは無理やり 自分を納得させる。まさに偶発性の象徴のような話である。 逮捕されるか、されないかは偶発性。自分ではなく、あなたが逮捕されても おかしくない。まさに不条理。ここに自分でなくても・・という入れ替え可能性 の問題が忍び寄る。管理社会は入れ替え可能性の問題に関わる。  管理社会において、自分でなくてもこの技術システムなら誰もがそうするの であれば、別に自分でなくてもよいのではないか?と複雑な問題が絡む。  さて、この問題は深き哲学の問題にも関係するので、追っていつか話を 進めたい思うが、テロが怖いから、異常な監視体制を望むか、過剰を抑えて 、人とのコミュニケーションを信頼するか、自分の実存を信頼するか、 微妙な時代を迎えている。

芸術的センス

 3月であったか、たけしのテレビタックルで、靖国神社問題を話し 合ってた時、大竹まことが靖国に8月15日に行ってはいけないのなら、 わざわざずらして行くよりも、毎日行けばいいじゃん!と大変面白い 発言をしていた。いわゆる「毎日行こう靖国神社」である(笑) このようなユーモアは大変面白いとともに大事なことのように思えて ならない。政治家にはもちろん戦略的な思考のできる知識が必要条件 であるが、それだけでは、十分条件とは言えぬ。 政治家の前に芸術的なセンスを身につけているものが、先見性のある 発想を考えられる。  小室直樹先生はもちろん、過去の歴史それから比較の分析ももちろん されているが、それを軸に直感的な発想を持ち合わせている。 確かに未来を予測するには過去のデータは大事である。であるが、 未来を予測するにはそれだけでは、もちろん不充分。一体何が起こるか 分かったものではないのだから。そこで、芸術的な目利き、鼻利きのできる センスが大事とされるのだ。  大竹まことのようなコメディアンの発言にはなかなかのセンスを感じられ るが、基礎的な素養がないため、惜しいところ。元々彼は政治家を目指して いるわけではないから関係ないのだが。  靖国神社参拝については、ドイツと比較してみると、ドイツの場合、 全ての戦争責任をヒットラー率いるナチスに押し付けて、一応のコモンセンス を得た。未だ些少な問題はもちろんあるが。日本の場合かの有名な田中角栄 の日中共同声明により、中国に対して、あの戦争の責任はA級戦犯におしつ けることで、一応の解決を見たのだ。事実はA級戦犯にのみ、責任を おしつけるのは矛盾だらけであるが、敢えて、おしつけることで、細かい 事はおいておいて、やくざの手打ちのような感覚で解決しましょうという 事だ。せっかくそのような約束をしたのであるが、中曽根元総理などは 公式参拝するなどばかげた事をやってしまった。  1度やってしまったものは仕方なく、小泉も今後靖国参拝は続ける であろうし、中国にとっても国内世論を安定させ、支配させるためにも 靖国問題は格好の材料となることが分かっているので、今後も非難を 浴びせかけてくるだろう。ここで、先日の朝生で森本敏教授が言っていた ように、靖国参拝をするかしないか分からない状態を保ちつつ、 中国側から、日本にとって有利な条件を引き出すという戦略が有効だ。 だが、戦略もなく、靖国参拝をしてしまったら、それでもう外交カードが また一つなくなることになる。  ただなんだかんだ靖国神社には戦死者の魂が眠っているというのは 無宗教日本人でもなんとなく、みんな合意できる感覚は持ち合わせている のではないか?そことの政治の絡み合いは非常に難しい。  人は生きるために、慣習に従って行動する。あいさつが典型であるが。 古来から続く慣習のおかげで、自分でものを考えずに行動できる部分が 大半。その分自分でものを考える時間も増える。 自分の意思でやっていると思っていたことも結局は慣習に過ぎぬことに 気づくことも芸術的センスには必要不可欠。そして、慣習以外のことを 自分はしていると気づくことも芸術的センス。慣習ばかりの生活では つまらぬ。慣習を利用しつつ、自分の創造力を発揮していくのがベストである。  
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