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誰も知らない

誰も知らないの画像  日本では最優秀男優賞を史上最年少で受賞した柳楽優弥主演で知られる 「誰も知らない」1988年に実際に起きた子供置き去り事件をモチーフに この映画は創られた。父親とは既に離婚しており、ほとんど家に帰って 来ず、たまに帰ってきて、まるで当たり前のように母親として子供に 接するYOU演じる母親。だが、母親はついに1年間も帰って来なくなった。 そんな中、母親の残したお金、母親の不倫相手と思われる男からお金を もらいどうにか暮らしていた。3人の子供を抱える兄は必死に頑張った。 4人とも義務教育にも行かせてもらえず、人にばれるのを恐れ、あまり 外に出ないように弟達に指示されていた。それでもめげずに、子供らしく 生きていく。  この映画には両親不在でどう子供が育つのか?という重大なテーマが 掲げられている。しかも両親以外の人々との接触はほぼ皆無だ。 接するのは兄弟がほとんど。たまに友達をつれてくることもあるが、 みんな学校に行っていたり、塾でかまってくれない。ある中学生の女性は 交流の輪の中にいつのまにやら入っていた。  そう、子供達だけでも十分生きる力は養われるのだ。そして、それぞれ 兄弟年齢差も違う。その中のコミュニケーションでどうにか生きていける たくましさ。子供の可能性を感じさせてくれる映画なのだ。 子供を置き去りにして可愛そうというとらえからよりもむしろ、 彼らは過保護下の両親の下で生きてくるよりもずっと生きる力を身につけた 事であろう。    そんな中、悲劇は訪れる。妹が事故で亡くなってしまう。戸籍上にさえ、 その娘の名前があるか分からないかしらないが、兄は妹に見せてやりたかった 父親が働いているといわれる羽田空港の近くのモノレールの土手の下に 埋めてやった。  最後に世界の不条理を見せ付けられ、どれだけ特に兄貴に実存的に 影響を与えただろうか?そう、兄貴は社会の不条理はもとより知っていたの だが、世界の不条理も知った。兄貴の今後を想像すると、非常にタフネスさを 持って生きていくと想像に難くない。この映画はあくまで子供の生きる力の 凄まじさを教えたものだ。だから自分はあまりにも過保護教育は不賛成なのだ。
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教育の本義

痛快!憲法学 ― Amazing Study of Constitution & Democracyの画像  何かの問題について考える時、明確な答えが義務教育のテストのように 帰って来る方が果たしていいのでしょうか?もしくは、あいまいなまま 自分で思考錯誤して、自分はこうだ!と思うと判断して問題に対処する 方が良いのでしょうか?  212回目の今回のマル激トーク・オン・デマンドにはなんと宮台真司 さんの師匠である小室直樹先生が出演した。しゃべる小室直樹先生を見るの は始めてだったので、大興奮してしまいました。昭和7年生まれですので、 かなりの高齢ですが、言っている内容は含蓄がありすぎるものでした。 憲法改正問題について、9条の2項の武力を持たないという条文はパンチ があるので、憲法を改正すると外国には見せつつ、実際には改正しない 戦略を取るのが良いという非常に目からうろこ的な意見も聞けた。 このような戦略を取ることにより、日本の再軍備に歯止めがかかるという 論法だ。実際には武力を持っているが、持っていないと条文にかくことで あいまいにし、結局軍事力を最小限に抑えられる戦略である。 このような戦略的な思考が出来る政治家や学者などめったにいない。  さて、戦略的な思考をするためにはどうすればよいのか?それは今回観た マル激トーク・オン・デマンドが非常に参考になった。小室先生は 質問してもオーソドックスな答えしか返してくれず、後は自分で考えてください というようなスタイルを取っている。ここが大事だと非常に感じた。 無からでは思考のできようもない。だからこそ、権威ある人にオーソドックス で基本的な答えは教えてもらう。だが、そこから先は自分で考えろ!と いうスタイルである。  一方、自分自身は明確な答えを与えてくれる人のおかげで救われた体験が 何回もある。だが、そういう時期というのは自分自身が全く持って思考も できないような精神状態に追い込まれていたからこそ、効果があった。 だから、明確な答えが与えられる事も時には良い。だが、ある程度 心の安定が保たれている状態になったら、明確な答えとも言えるオーソドックス な思考を基本に自分で応用して考えていかなければ、新しい発想、もしくは 明確な答えを与えてくれる人が途絶えた場合、未来はなくなる。 思考錯誤は大事である一方基本を教えられる事も重要。 基本とはどこまでか?という難しい問題もある。 この曖昧模糊とした状態の中で基本的と思われる思考を軸に応用できるかが 鍵である。基本を元に思考錯誤させてくれる状況こそ、教育の本義と 自分は感じる。

歴史のIf

 先日の天皇の話の続き。戦後GHQは天皇の処理について苦心した。 「 菊と刀」の著者である女性人類学者ルース・ベネデクトを始め数々の アメリカの研究者が日本という国について研究し、一つの答えを出した。 既に現人神となられた天皇を戦犯として死刑に処すればいかなることが 起きるのか?アメリカにとって最も恐れたのはアメリカが将来日本がアメリカ に対して宣戦布告をしてくることであった。弱小国と見られていた日本が ゼロ戦など世界最先端の戦闘機を有し、アメリカは緒戦は全く歯が立たなかった 経験もあり、日本という国の底力を恐れている。    日本は特攻隊に見られる心情のように天皇の為なら国のために身を捨てつる ということが強さの秘密であるのではなく、戦闘機などの軍事技術の最先端の 技術を得て製造していたからであった。戦後日本が高度経済成長を 遂げたように日本人には技術力が異様に高いようだ。しかし、それが使う側 失敗すると先の大戦のように大敗することになる。技術はいいが、人の 頭の問題、心の問題、そして社会システムの問題となる。  さて、その日本に恐れたアメリカが取った政策はいわゆる天皇を戦犯扱い にせずに、人間宣言させたことであった。人間宣言した時天皇教の信者と 化していた人々にとっては急性アノミーに陥ったであろう。そこで、 心の秩序の安定の為に共産主義に走るものも少なくなかった。それぐらい、 天皇の人間宣言は強烈なものであった。しかし、日本人の忘却癖ゆえに、 徐々にそれも失われていった。というより、天皇共同体から、会社共同体、 学校共同体が強固に形づくられたので、急性アノミーからどうにか 回避できたのかもしれない。  しかし、もしアメリカが天皇を戦犯にし、死刑にしていたら・・・ カリスマの人を殺すと逆にその人のカリスマ性は増し、その人の影響を 受けた人々に手がつけられないほどに、帰依を与え、反米は強固に増した であろう。歴史にイフはナッシングというが、それは日本の歴史教科書程度 の問題で、歴史学ではイフこそ重要で、もしあの時こうしていたらこのように 歴史は動いたと歴史シュミレーションできることが、現代の我々が未来を シュミレーションする上で大変な好材料となってくれるのだ。 キリストも死んだ後復活し、パウロの隣人愛の精神によってそれまで、 部族内部で固まっていた共同体を超えて、様々な共同体に広め、今や 全世界に広まった。復活というのはキリストの教えが復活したというような 意味でとらえて頂ければ助かる。それと同じようにもし、天皇を死刑にしたの なら、やがて、天皇は復活し、そのカリスマを継いだものたちが何をしでかす か分かったものではなかったのだ。  アメリカのこの驚くべきまでの日本分析は参考にせねばなるまい。 それに比べて日本は敵国であるアメリカの分析を全くしていなかった。 戦前アメリカは反戦ムードで、アメリカと戦争などしなくてもできる 戦術はあったのに・・  自己にも自己だけの歴史がある。もしあの時こうしてたのなら・・と だが、自分自身の体験だけで言わせて頂くと自分自身の過去を振り返り、 あの時こうしていたらなあと悔いるのは苦しいだけで、自分の未来を 見渡せる余裕はない。だからこそ、世界の歴史、自然の歴史という壮大な ものから力を借りて歴史のイフ作業を行い、未来につなげていく方が ずっとずっと楽であるとつくづく感じる。 これは人類の歴史だけでなく、宇宙の歴史に思いをはせさんじるだけでも 心が広く、深く、どっしりとした思考ができるようになる。

殺人狂時代

殺人狂時代の画像  チャールズ・チャップリンの「殺人狂時代」この作品によってついに、 チャップリンはアメリカから追放されることになる。戦争に対する 皮肉を込めた作品を過去に「独裁者」で創っており、とうとう追放の目に 遭ったわけだ。  この映画はチャップリンらしくない映画と言われ、チャップリン自身が 殺人者の役を演じる。30年間勤め上げた銀行を1929年の世界大恐慌 により、リストラされ、仕事をなくしたチャップリンは結婚詐欺士となり、 お金を次々にふんだくって生活していた。時には結婚相手を殺すことさえ、 あった。だが、映画の中では殺すシーンは映されていない。今では 人が人を殺す場面などテレビのドラマを見れば日常茶飯事だが、 この時代ではなかなか難しかったのか、チャップリンの演出なるのか。  もちろんこのような悲劇的な映画の中でもチャップリンらしい喜劇も 沢山盛り込まれている。ラスト近く、とうとうチャップリンは破産し、 家族も失い、殺人者であることもばれ、まさに何者でもないものと なった。そして、いともたやすく、警察に自ら捕まるかのように 捕まえられる。裁判で、チャップリンらしい主張で陪審員の心を揺り動かせ、 大赦を下されるが、チャップリンはそれを拒否。自ら、死刑の道を歩んだ。  死刑台に向かう前のチャップリンの言葉、「1人を殺せば死刑、百万人を 殺せば英雄・・・」という皮肉を言って死刑台へ向かっていく。そして、 ラストにこちらを振り返る。ある種の恐怖を感じる。我々はそういう歴史を 歩んできたことを痛感させられる。そして、現代の我々も人こそ大量殺人 はしないが、相変わらず、大量生き物虐殺を繰り返して生きている。 これが、生き物の宿命なのか?だからこそ、せめて、大量殺人すれば 英雄などという妄想は抱きたくないものだ・・

ネタとベタ

 伊藤博文による孝明天皇暗殺計画があったという説もあるように、 幕末の志士達は天皇を崇拝しているわけではなく、いわゆる天皇を 利用として、日本を近代国家に創り上げようとした。これはかの有名な ペリーの黒船来航のトラウマを抱えているためである。未だにこの 黒船のトラウマを感じているのではないか?と時々感じる事がある。 早く、近代化を成し遂げて、不平等条約を解消せねば、日本は潰される と恐怖におののいたのである。伊藤博文は欧米諸国を研究し、近代国家を 創り上げるには宗教が必要であると気づいた。しかし、日本には宗教は なかった。宗教といっても最澄が円戒を創り、戒律は自由に決めても いいのだと主張し始めたのだから、日本には戒律なしの宗教となった。 その後、親鸞が妻帯者となるなど、本来の仏教では考えられない事が 次々に起こった。  これは良い、悪いの判断ではなくある種日本人は知恵があるのかもしれない。 ただ日本をまとめあげるような宗教は存在しなかった。そこで、キリスト教の ような一神教の神を人工的に創り出す術に出た。まさにイエス・キリストの ように天皇は現人神であるという思想を国民に植え付け始めた。 一神教の神の命令は絶対であり。契約は絶対に守らなければならない。 守らなければどのようなことになるか、旧約聖書を読めば分かるだろう。 この縦の絶対の契約概念を人と人との横のつながりに応用することで 資本主義及び民主主義は生まれてくる。神の下では全て平等。 日本では神である天皇の下で全ての人は平等。その思想により、士農工商 という身分差別も形上なくなったことになる。教育勅語を見れば天皇の下では 臣民は平等扱いされる。特権階級も農民も平等だという意識だ。 そこから民主主義の発端が始まる。  伊藤博文を始め、維新の志士達はこの事をよく心得ていた。あくまでも 近代化を優先させるために、敢えて天皇を神のように扱っている、いわゆる 天皇機関説だ。しかし、日清戦争の勝利、勝てるはずもなかった日露戦争 に勝った事により、明治天皇の神聖が一般大衆にそれはネタではなく、 ベタに伝わった。さらに明治後期、大正、昭和という時代に入ってくる につれて、天皇は単なるネタに過ぎず、利用しただけだということが忘却 され、本当に真面目にベタに神聖を信じてくる輩が増えてきた。 それは維新の志士達が既に死に絶えていった時代でもあるからだ。  北一輝などの知識人達は天皇は機関に過ぎない事を十分知っていたのだが、 いつのまにやら、天皇に神聖が持たれてしまった。特に日本人は忘れやすい 性質なので、こういう事によく注意せねばなるまい。真面目過ぎる若者は 今ではネタで、イイ学校に入ればイイ会社に入れてイイ人生を送れるという 笑い話を真面目な教育ママに言われ、ベタに信じ込んでしまう 時代錯誤な人もいる。 ネタとベタの区別を分かるようにするには歴史を知らねばならぬ。

名探偵コナン 水平線上の陰謀

名探偵コナン 水平線上の陰謀の画像  「名探偵コナン  水平線上の陰謀」を映画館で観た。平日の昼間に見たので、 自分と一緒に行った人も含めて合計で7人ぐらいしかいないがらがらの 映画館であった。それでも映画館で観ると映画は一味も二味も違う。 どこか周りの反応も気になってみたり、子供は理解できるのか? 泣いて騒いで迷惑かけないだろうか?などと心配してみたり、そんな1度 限りのライブなので、自宅で観る映画より興奮する。  コナンのような事件を推理していくストーリーは昨日書いた「父、帰る」 と違い事件の謎がすっきり解けるから非常にすがすがしい。複雑過ぎる 事件を自分なりに解こうとするのだが、もちろん自分には無理で推理を ぱっと出すコナンの言葉にそうだったのか!?っとはっとさせられる。 また、巷で起こっている動機不明な殺人事件ではなく、動機が良くわかる 殺人者達を描いているので、共感がしやすい。そして、コナンは犯人を 自殺に追い込まず、捕まえる事を信条としている。  一方「人は何故憎しみあったりするんだろ?憎しみを持たないように人 はなれないのかなあ?」という小学生の質問に灰原哀は「それは無理よ。 人間だから・・・」ときっぱり答える。憎しみ合うのは当然。だからこそ、 思いやりが大事だと語る。これを観る子供には良い影響を与える言葉だと 思う。特に憎しみ合うのは人間の本能でもある。  この映画ではいつもだらしない毛利小五郎がすごくかっこいい。 主役は毛利小五郎に当てられた感がある。  もう一つかくれんぼの話。船の上でかくれんぼをすることになった。 だが、コナンは俺はパスと言い放つ。それを聞いて蘭は敏感に反応する。 昔新一にもそう言われたことがあることを。そして、体育館の舞台の 下のドアの中に隠れていたが、誰かがそのドアの上に階段を押して置いて しまって、誰も見つけられなかった蘭をかくれんぼには参加していない 新一が見つけてくれたことを・・・そういう淡い思い出ってどこか 心を暖かくさせてくれる。  迫力ある豪華客船が爆発されるシーンなど盛りだくさんの映画で 観た後爽快感がある。    ここで、話の視点を変える。現代はポストモダンの時代だと言われている。 つまり、豊かになり、大きな物語を失った後先進国どこの国でも訪れる 時代だ。目標を喪失し、大きな物語を失う。断片的な物語が偏在する。 中には物語そのものではなく、キャラクターにいわゆる萌えするために 観たりする。コナンは殺人事件というものを扱いながらもユーモアを 交え哲学も時には交える。  人類は仲間の為に人を殺せ!といういわゆる同害報復の論理で当たり前の ように仲間の為に人を殺して来た。人を殺してはいけないという共通の合意 を得てきてはいない。ただ仲間が殺されたら殺し返せというのが人類の掟 でありつづけた。生き続けるためにはそうしなければならない面があるし、 人間も動物と同じく自己を第1に守るのが生命体としてむしろ自然だろう。 だが、何故我々は現代多くの人が人を殺さないのだろう?それは人を殺せない 教育を受けてきているからだ。分かりやすく言えば、人を殺すという選択肢 を通常は持てない。殺せないのは1人でもいい。誰かに助けられ、自己が 承認されたという思いがあり、殺す事は自分を殺すことにもつながるからだ。  性質的には殺してしまうという生き物の定めであるが、このような 殺人事件を扱ったマンガを観る事は有益なのだ。近代化の中で生きてきて 殺せなくなった我々が、マンガをとおして殺してしまう動機をみることは 学習になる。また、恨んだ相手を殺して、捕まりたくない思いからあそこ まで周到に殺人を計画する人間のすごさ!を感じる。  もちろんこれはフィクションであることを忘れてはならない。 敢えてフィクションであるからこそ、楽しく観れるのだ。 フィクションとノンフィクションの区別がつきにくい〜主義などは 問題であるが、このような名探偵コナンのような幻想と現実が明瞭に 区別できる映画は非常に有益である。

父、帰る

父、帰るの画像  2003年ヴェネチア国際映画祭グランプリ金獅子賞を受賞した 「父、帰る」映画の初めに高台から水に飛び込む子供たちの度胸試しの シーンで始まる。高いところが苦手なイワンは飛べずに、弱虫呼ばわり される。この映画はとにかく水、水、水あらゆる情景で水が出てくる。 ロシアを舞台にした水の風景に魅せられる。  ストーリー的には説明的な文脈ではなく、脈絡はほとんど大事にして おらず、謎を残したまま終わるので抽象的な映画な印象を受ける。 題名の通り12年間何をしてたのか分からない父親が突然帰ってきて、 弟イワンと兄と旅行に出かけることになる。イワンは父親の顔もわからず、 本当にあんな奴が父親なのか?と終始反発的な態度で父親に接する。 一方兄は少しは父親のことを覚えているのか?年齢的なものなのか、 父親に媚びる。そんな兄の姿にイワンは反発する。  何者か分からない父親だが、父性を持っており、子供達に厳しく 接する。一方、イワンも大反発。12年間もいなかった何者か分からない 父親のいうことなど・・旅行の最後に無人島へ行く。ボートが荒波に さらされながらも、父親は何もせず、息子たちにオールをこがせる。 無人島はすごく綺麗だった。無人島にある展望台。高いところに恐怖を 覚えるイワンは登らず。一方父親は謎の箱を掘り出していた。 この箱の意味は最後まで明らかにされない。そんな中、反発し合う 父親とイワンとの間の中でイワンは父親に刃物を向ける顛末。 だが、泣いて父親を罵倒して走り去る。父親は「誤解だ・・」と叫ぶが・・ 走り去ったイワンは高いところが苦手だが、展望台に登り、飛び降りる 勢い。それを助けようとする父親は過って展望台から落ちて死去。  死体を運ぶ兄弟。無人島から運び出し、陸地に着き、死体を車に乗せよう とした時、ボートの紐がはずれ、父親は海のそこに沈んでいく。それに 対して今までお父さんと呼ぶことさえ、抗っていたイワンが泣きながら 死んだ父親を救おうとする。だが、助けられず、そのまま呆然と何も なくなった海を眺める兄弟。  父親が結局何をしたかったのか?よく分からないが、そこがこの映画の すごいところ。そして、自然の情景に圧倒される。そして、死体の父親に 駆けるイワンの姿は父親にミメーシスされたかのようだ。 ストーリーとしてはつまらない!と言ってもいいかもしれない。 であるが、無意識下にあの旅の情景、イワン、父親、兄の世界が 端的に響いてくる。理屈ではなく、感じ取る力。世界の人間では理解 できない未規定性に対して端的に響かせるこの映画は見終わってじわじわ やまびこのように心に響いて来るだろう。

朝まで生テレビ

 自分(1970年代)のような世代であると、実際の生活空間・時間より もメディアの中で住んできたというイメージが大きく占めてくるように なってきた気がする。かろうじて自分たちの世代であると、それこそ、 鬼ごっこや缶ケリやケイドロ(ドロケイ)などを地域を含めて遊んだ 世代であるが、ビックリマンシールが流行り、ファミコンゲームが 流行り、キンケシが流行るなど、多くメディアを介しての遊び、コミュニケ −ションが増え始めた。それこそ、ジャンプを代表したドランゴンボールを 共通の話題にした世代である。それぞれの地域で流行ったものは違うと 思うが、ミニ四駆やコマ回しも我が小学校では異常に流行った。  さて、現代の小学校の子供はどうなんでしょう?ポケモンカードを 交換したり、ゲームの話題を介したコミュニケーションばかりで、 実際の生活空間・時間の遊び、コミュニケーションは少なくなっている のでしょうか?それの是非はもちろん分からないが、子供でさえ、 インターネットにアクセスし、それこそ、有害な情報もある2ちゃんねる のようなものにも簡単にアクセスできる。自分たちの世代ならドラゴンボール ならドラゴンボールで話ができるというよりも、個々がばらばらに なり、情報過多によって共通前提で遊び、コミュニケーションができない 状況になっているのでしょうか?インターネットは有害な情報があるから、 子供にアクセスを禁止させようという意見もあるようだが、それは全く 問題を先送りする意見であり、むしろ、インターネットの実情を教え、 こういう荒らしの奴もいるし、こういうグロ画像も巻いているサイトもある。 その実態を教えどう対処するのか教えた方が有益である。 どうせ、インターネットのアクセスを制限させようとしても見れる奴は見れる るんだし。  現在は落ちぶれつつあるが、 朝まで生テレビという番組がある。全盛期だ った冷戦体制崩壊前の朝生は見ていなかったのが、残念であるが、このような 番組は専門家のパブリックの意見が聞ける重要なツールである。 自分は宮台真司さんがブルセラ学者として登場し始めた頃から特に 見始めたが、議論で次々に論破する宮台の姿にはすごいものがあった。 冷戦体制崩壊前の朝生では右左の対立に分かれてそれは面白かったそうだ。 ただエンターテイメントとしておもしろかったのであって、実際の議論は 稚拙であったそうだが・・  本来右とは中央集権的な再配分制度を否定し、私的自治の原則で、自分の 共同体は自分で自立してやっていくという立場。左は中央集権的な再配分制度 を肯定する立場。右というと保守と呼ばれ、弱いイメージがあるが、右こそ、 自分たちの小さい共同体で自立して生きていくというそれこそ、保守本流の 現れである。だからといって小さい共同体だけで解決できない場合もある。 その場合に、地方自治体に解決してもらい、地方共同体が解決できない 問題はその上の単位の、県、国、EUのような国同士の単位で解決していく という立場。だから自分自身の場合で言えば、右よりと言えるでしょう。  現在の朝生は田原総一郎が議論をわかりやすくさせるために、プロレスみたい な議論を繰り広げている。宮崎哲也が何度か代行で司会をしたことがあるが、 その時は分かりやすさよりも、議論を掘り下げる方針でやっており、非常に 見ごたえがあった。せっかく3時間の番組なのに、物事をはっきり決め付ける 議論で終止してしまっては、我々視聴者をバカにしてるとしか思えない。 田原は視聴者に分かるようにと心がけてくれているが、それが却って仇となり、 視聴者の民度が低くならざるをえない。  今回は雑多なコラムとなってしまいましたが、人々がメディア、インター ネットの世界に住む時間が多くなってしまっているのは事実で、だからこそ、 質の高い議論を聞ける番組やサイトが増えて欲しいと思っている。 質が上がれば、見る側のレベルも上がる。ただ見ているだけだった側も 参加する意欲が湧き、実際の生活空間・時間の中で議論していく余地が 生まれてくるのではないか?と期待して言っている。

うつ病対策

 日本の自殺率は例の見ない多さとなっているが、若者の自殺は今回は 横に置くとして、圧倒的に中高年の自殺が多いのが現状である。 これには大きく分けて二つ原因がある。土地担保主義とうつ病対策の 遅れである。  土地担保主義は銀行が中小企業にお金を貸す際、その技術、才能で 評価してお金を貸すのではなく、土地を担保にお金を貸す制度。 つまり護送船団方式に守られた銀行は企業の技術や才能を担保にお金を 貸す能力が極めて乏しいのである。時代を見据え、この企業の技術革新 なら、お金を貸すに値すると判断するのが銀行の本来あるべき姿。 判断を下すにはそれは大変な労力と分析が必要であろう。 しかし、それこそ、競争社会ではあるべき姿。才能ある企業にお金を 貸せない現状であるのだ。 その結果土地を担保にお金を貸す。借りた企業が倒産した場合、担保は 土地であるので、家ごと全てもってかれ、家族崩壊そして、ホームレス、 、自殺という図式だ。これはあらっぽい議論なので、個々の様々な ケースがもちろんあることは認識している。 だが、政府に守られた銀行の土地担保主義は早めに是正せねばなるまい。  もう一つがうつ病対策の遅れ。日本では、カウンセリングや精神科に 行くだけで異常者扱い、一方アメリカでは日常的にカウンセリングに通い、 指導を受ける。極端に精神状態がひどくならない状況でアメリカでは行くので 軽傷のうつ病で対策できる。だが、日本では未だに偏見があるのか、 精神科に行くのが抵抗あるため、もう末期の重度のうつ病になってから ようやく足を運ぶ。これでは、手遅れであることが多い。 もっと軽度の段階で足を運ぶべきなのだ。 現代は高度成熟社会を迎え、誰もが何が幸福か不幸せか分からなくなり、 ストレスの多い時代だ。それに合わせて、うつ的な傾向をもつ人が 増えるのも自明の理。末期になる前に病院に行くのが自殺率減少の鍵だ。

良き依存

 世界によりかかる。いくら試行錯誤して、自信を得ていっても、 やりすぎは疲れの元になるだけです。試行錯誤して、自己決定能力を 得たとしても、それが自分の力だけで得たものではない事に気づく必要が あります。傲慢になるということもありますが、本当にそれは疲れて 生き辛さを増すだけだからです。  社会システムにすがり、社会の外の世界にすがる。依存的な意味ではなく、 社会なら血を流して勝ち取った民主主義や教育制度、様々な長い歴史の上で 我々は立っている。世界や自然もまた我々ではどうしようもない、不条理を 背負ってくれている。    社会システムなら尚更いえますが、自分という個々の人間はシステムの 一部に過ぎず、自分以外のものでも入れ替え可能なもの。自分という存在 がそこにあっても、なくてもそれほど大きな差はない。これをペシミズムと とらえるか、楽だなあと思うのは個々の判断です。    また、世界なら世の中の不平等不条理を受け入れてくれます。人間の 思考を遥かに超えたこの世界の中の一部である。この未規定性の世界 に身をゆだねる。なんと楽なことか。怠惰になれというのではない。 自分の力だけで全てを何もかもしようとすると限界が見え、絶望する。 だが、社会システム、世界にゆだねることで、体が、心が楽になり、 アイロニーとも言えるが、何の力も入らず、自己が確立される。 アイロニー的だが、それこそ、オンリーワンになろうとしてではなく、 勝手にそうなっていく。そんなに身構えない方が却って、自分に合った 生き方ができるということだ。  夢は持つものではなく、夢は向こう側からやってくるものだと自分は とらえる。あせらず、待っているのだ。

独裁者

独裁者の画像  チャップリンの代表作の一つ「独裁者」チャップリンは言葉を発する トーキー映画に批判的で「モダン・タイムス」でしゃべったとはいえ、 チャップリン独自の言葉で誰にも分からない言葉でしゃべった。 しかし、初めてチャップリンはこの作品でトーキー映画を創る。 トーキー映画に批判的であったのが、一変全編トーキー映画を創ったのは 当時ヒトラーの独裁政治に対する批判を率直にかつユーモアに伝えたかった からだ。  ラストシーン、単なる床屋に過ぎないユダヤ人のチャップリンであったが、 ふとしたきっかけで、顔形もヒトラーに似ていた事から、なんと、国を 併合する演説を行うシーンで替え玉としてヒトラーの変わりに、単なる 床屋のチャップリンが演説を行う。演説できないと戸惑うチャップリンで あったが、いざ演説を始めるとそこには床屋の役も忘れた生身のメッセージ で演説した。顔も俳優としてではなく、チャップリンの実存を込めた メッセージであった。演説の内容はこうであった。  「私は独裁者にはなりたくない。支配はしたくない。できれば援助したい ユダヤ人も黒人も白人も人類はお互いに助け合うべきである。他人の幸福 を念願としてこそ生きるべきである。お互いに憎しみ合ったりしてはいけ ない。世界には全人類を養う富がある。人生は自由で楽しいはずである。 貪欲は人類を毒し、憎悪をもたらし、悲劇と流血を招く。思想だけがあって 感情がないと人間性は失われる。知識よりも思いやりこそ大事である。 思いやりがないと暴力だけが残る。兵士諸君、犠牲になるな。独裁者の 奴隷になるな。夢を知らぬものだけが憎しみ合うのだ。人生はもっと 美しく、もっと素晴らしいものなのだ!」  迫真に迫るこの演説にはなにかくるものがある。1940年に創られた 作品。当時のヒトラーのファシズムを行う中でこのような映画を創るのは 多くの批判があったそうだ。  今の北朝鮮問題一番ソフトランディングに解決するには金正日自身が 改心することだと言われている。絶望的であるので、死ぬのを待つという 意見が多数であるが。6カ国協議が第2のソフトランディングですね。 そこで、金正日に似た人物を探し出し、チャップリンのような替え玉が 独裁体制を辞める演説、政治判断を下したら決着するのに・・っと 思うのはユーモアであると同時に非現実的であるが、使えない手ではない かもしれない。北朝鮮幹部にも金正日批判がでているところをみると。。  朝鮮戦争は悲劇であった。あれは共産主義のソ連と資本主義のアメリカの 対立で生まれ、北は共産主義、南は資本主義と勝手に分断されただけ。 イムジン河を境に・・まさに悲劇であった。

エヴァンゲリオン

劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君にの画像  この漫画は1990年代後半一世を風靡しましたね。自分自身もすごく はまりました。俺って「碇シンジ」みたい、と自信ありげに話す奴いましたね。 自分自身も自分が碇シンジのようだと思ってみたり。人気を博した事も あって男性の実存がいかに弱いものか?ということが日常会話で語られる ようになったのは良きことだと思います。    一般に幼児期は万能感に満たされています。ですが、競争社会やコミュニケ −ションの失敗によってその万能感は破壊され、肥大したプライドは抑えられ ます。一方ちょっとしたいい成績を取れば、誉められてしまう温室育ちで 育った人間はプライドだけは高いが、一方実存的な自己信頼が非常に低い。 もし、成績がよくなければ、ただちに自分は無用な人間だと敏感に感じて しまっているからです。そのため過度に人の目を気にするようになります。 人の目を気にするあまり、自分で試行錯誤して生きた経緯がないので、 極端に自分の目を気にしない。つまり自分を信頼できない。 いわゆるプライドと自己信頼の乖離です。 この問題は長く抱えるほど深刻で早めにこの乖離を埋める必要性がある。 学生が終わり、社会に出れば、一瞬で高いプライドは幻想に過ぎなかったと 気づくわけですが、いつまでもそれに気づくのが怖く学生を繰り返す者や ひきこもりになる若者もいます。  碇シンジもその典型でした。極端に実存的に自信がないが、エヴァに乗り 使徒をやっつけることで高いプライドを持てつつあった。だが、人に誉められ なければ、すぐに自信喪失に陥る。そういう実存的な問いかけもこの漫画の 主題であったが、何故使徒がやってくるのか?世界の謎に目を向けている点が 非常に高く評価された。自分の謎から世界への謎へ・・・ そこに深さがあった。しかし、テレビ版最終回ではまた自己の問題へ 収束されていく。映画版でも崇高な精神共同体への一体化が描かれており、 なんだか脆弱な男性の心象が刻まれているようであった。  実存ばかりでなく、世界の調べ、不条理を説く、「パッチギ」などに タフネスさを感じる。

絶望からの出発

 悩んでいるということはそれは意識が内面に向かっているということ。 当たり前だが、外には意識が向かっていない。そのため、社会に関心が 持てず、世界に関心が持てず、自分自身にのみ関心があることになる。 関心がないと社会や世界や宇宙に対しての知識や感受性も当然疎くなる。 さすれば、社会不適応になるのは自明の理である。  自分にのみ関心があるゆえに、社会で起きていることは無論、今の季節 で言えば、桜がどうのこうだ、美しいとかそんな感受性も生じてこない。 一見、無表情、無感動人間になる。ただ、自分に関してのみ関心が集中 しているので、内面では蠢くような感受性が育て上げられる。決して他者 や社会や世界や宇宙と共有できない感受性。それはすごく孤独性のもの であり、ある種の人間はそれに美意識なるものを持つ場合もある。  だが、悩んでいる時は、苦しいとはいえ、ある種生きがいを感じる。 生きている感覚。自分独自の生きている感覚。何もなく、世間に流され、 平凡に生きるよりもずっと生きがいを感じられる。それは逆説的だが、 それが辛ければ辛いほど。  それでもいつしか悩みは解決できないということを悟り、絶望する。 その時から新しい道が始まる。絶望後、今度は外に関心が行く。 社会や自然や世界や宇宙。そして、自分はその中のちっぽけな存在に 過ぎないと同時にそんなばかでかいものの一部であることにある種驚嘆する。 自分の内面の問題で悩んでいる人に政治の問題や自然の素晴らしさを 語っても土台伝わるべくもない。それは分かっている。  ただこのコラムは自分より若い世代に対して主にターゲットにしてかいて いる。すぐには伝わらないかもしれないが、社会問題や自然、そして映画などの 文化という自分以外の外の事に関心を向けると非常に楽だということを いつの日か伝えたいと思うのだ。特に深く悩んだ人ほど絶望後、自分の 問題よりも他の問題や新しい良きものを創っていく気がしてならない。 順風満帆に生きて自分の人生一体なんだったのか?と老後に思い悩むより 若い時期に悩んだ人の方が遥かにタフに見える。そして期待できる。 自分自身幼少時代から悩みつづけてきた経験もあり、特に内面の問題に 悩んできた人に共感し、そして前向きに生きていってもらいたいという 気持ちが大きい。特に若い世代に対して。このような言葉発するとは 自分も老いたか?(笑)

OLD BOY

オールド・ボーイ プレミアム・エディションの画像  映画「OLD BOY」原作は日本の漫画の「オールド・ボーイ」日本のサブカル チャーの評価、特に漫画は韓国で高く評価されており、冬ソナが流行る 何年も前から韓国人は日本のサブカルチャーに興味を持ち、それがために 日本語を習得するほど親近感を持っている。冬ソナは一過性のものだが、 このサブカルチャー、まあオタク文化といってもいいだろう。それに おける日韓の交流は凄まじく根深く深いものがある。 韓国は日本の二の舞を踏まない為にも日本を反面教師にしている面もある。  この映画は理由もわからず、15年間監禁された主人公の物語。 釈放後男は何故自分が監禁されたのかその謎に迫っていく。 そこにはある男の深い復讐心によるものだった。  凄まじくバイオレンスであるが、人間など催眠一つで愛が結ばれるのか? など、深いメッセージも込められている。そもそも催眠や薬物を使えば、 誰でもそれが神秘体験だと信じ込まされれば、変な新興宗教にも だまされてしまう。現にオウム真理教でも薬物を使い、あたかも 神秘体験なるものを自分を得られたと感じ、入信の度合いを高めていく 方法がとられた。神秘体験など、いとも簡単に悪用される。 この世が全て夢であるならば、イコールそれは全てが現実に過ぎぬとも 言える。これは中観派の仏教的な考え方である。  先日までやっていたMの悲劇を彷彿とさせるストーリーだが、映画の 構成・絵づらからして、圧倒的に世界がいかに不条理であるかを 心に刻みさせるストーリー。あまりにも絶望的であるが故に、そこに 幸福を見出す。絶望を知ったが故の幸福感が描かれる。  絶望を知った者は理屈で生きてきた人には分からない世界への扉が 開け、そこに世界の調べが聞こえてくる・・ この映画はカンヌ映画祭でもグランプリを取った。社会外の世界を 知っているものならば、絶望的なストーリーのこの映画の中に 救いの道を見出すであろう。

手段の目的化

 戦前の日本は手段の目的化により戦争に負けた。戦争の目的は勝つ事である。 しかし、それを忘れて、手段である軍隊が目的化した。つまり軍隊内部の 規律、美徳を守る事ばかりが目的化した。軍の規律に従わないものは 厳しい、仕打ちが待っていた。殴る、蹴るは日常茶飯事であった。 だが、軍の上官がそのような事が本当に行われているのか?と仕打ちを 受けている部下に聞くとそんなことは1度もやられていませんと答える。 まさに内部規律が軍部に優先さらには国に優先しているのだ。 果ては、特攻隊のような、貴重な人材を戦略的にほとんど効果のない 方法まで取り、天皇陛下の為に死ぬのなら武士として美徳であるという 道徳律にまで支配された。戦争の目的は勝つ事であるから、貴重な人材、 貴重な戦闘機を無駄にせず、人材の育成に力を入れるのが筋であろう。  丸山真男が研究したのが、日本が何故戦争に負けたのか?である。 研究した目的は失敗した原因を研究することによって、今後の日本に 良い分析を与えるからだ。  だが、その後を継いだ小室直樹を初め宮台真司が訴えても未だにこの 日本の体質は変わっていない。外務省なら目的は外交である。しかし、 現在の外務省は外交ではなく、外務省内部の天下りの人事等のまさに 内向である。人事は確かに大事でそれは外交をする手段であるが、 それだけが目的になると戦前の日本と同じ過ちを犯すことになる。 そのような意味で田中真紀子が外務省の構造改革をやろうとしたことは 正解であった、小泉のマヌケな人事により更迭された。もちろん田中真紀子 の知識や戦略的思考のなさも問題であったのだが・・・  言いたいのは政治だけではない。個々人にも言えることである。 悩みは誰でもあるだろう。だが、悩みを解決することが目的であるはずが 悩む事自体が目的化してしまっている場合があるのだ。まさに自分自身の 事を指す。いつの間に悩み解決よりも悩んでいる自分に自分らしさを覚え そこに安住を覚える。もちろん悩んでいることは苦しい。だが、苦しみに 生きがいを感じてしまっていたりする。  ちょっちょっと待てよ。当初の目的はいずこへ・・・ 悩み解決後、自分は一体どうするんだ? それならば、悩みなど横においておけばいい。 悩みほど、手段の目的化になることはない。 プライオリティー(優先順位)を下げるのだ。 悩みなどプライオリティーの最下位に置いておけばよい。 プライオリティーの最上位にあげるのは何でもよいが、好ましいのは 自分に合ったもの。好きなもの。楽なもの。 ですよね。

モダン・タイムス

モダン・タイムスの画像  チャップリンの代表作の映画「 モダン・タイムス 」機械化・監視下された 社会を皮肉った風刺映画。ベルトコンベヤーの作業で、とにかく生産を 増やせば良いという資本主義社会に対する矛盾をしめしている。 作業中ベルトコンベヤーの作業に追いつかず、チャップリンごとベルト コンベヤーに流されながらも作業を続けるシーンは有名であるが、本当に 笑える。合理的・便利であればさえよいという今のアメリカニズムに対して の皮肉を1936年の段階で出している先見の明、素晴らしき。  チャップリンはトーキー映画に対し、批判的であった。 だからチャップリンはあくまでしゃべらなかった。中にはチャップリンは しゃべれないのではないか?と野次られたほどだ。批判の理由はそれぞれの 国の言葉は違う。その言葉の壁を越えた表現をしたかったからこそ、 チャップリンは批判的であった。今の日本のマスコミは日本語という非 関税障壁に守られて国内だけで成立してしまっている。国外に目を向けたいの なら、日本語にのみ守られた報道以外のものを考えねばなるまい。  だが、チャップリンはこの「モダン・タイムス」で初めてしゃべると宣言 する。ところが、どうだ、しゃべったのはラストのチャップリンが歌う シーンのみ。しかも、その歌の歌詞はどこの国の言葉でもないチャップリン 独自の言葉。誰にも意味などわからない。映画の中の観衆には意味が 分かっていることになっているが、映画を観る側の我々には何を言っているのか さっぱり分からない。このユーモアにはやられた。 改めて時代を横の力ではなく、縦の力で貫き、カタルシスを与えてくれる チャップリンのユーモアにこてんぱんに叩きのめされた。 叩きのめされすぎてすっきりするほどだ。

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夢の画像  黒澤明監督「夢」1人の男の様々な夢を描いた映画。睡眠時に見る夢は 時々自分にも想像がつかないような夢が展開される。すぐ忘れてしまうが、 創造力劣る自分にも夢の中の無意識下ではこんなストーリー思いつくの かと、時々自分も捨てたものじゃないと思ったりする笑 普段は社会に縛られ、周りに合わせてばかりだから、自分の能力発揮でき ていない面もあるのではないかとは正直思う。  この映画で印象的なのは特に第1話と第2話の少年時代を描いた狐の嫁入り と桃の節句。見てはならない狐の嫁入りの儀式を目撃してしまう少年。 そして、桃の節句の綺麗な映像。まさに少年時代自分も思い描いた 人間社会とは格別された世界観を見せ付けられ、懐かしさとともに 心がやすらぐ。自分の家の近くにあった、昔だいだらぼっちが歩いた と言われる、大きな足跡とされる池があった。少年時代の自分は大変 惹かれた。河童伝説も大好きだ。この不思議な感覚、今でも心に残り、 無意識下に刻印される。  最終話の盛大な葬式。葬式といえば、暗いイメージだが、その村では 長寿を全うした人に対し、まさに祭りのように祝福し、踊りや歌で 盛り上がる。それを唖然と見つめる主人公。ただ死とは暗いイメージばかり ではなく、明るいイメージもあると印象づけられるこの最終話は 深いメッセージがある。こうして書いている今も葬式での祭りの音楽と 踊りと掛け声が聞こえてくる・・・

沈む国ツバル

ツバル―地球温暖化に沈む国の画像  地球温暖化の影響により沈む国ツバル。実際にこの国は毎年75人の 国外退去を余儀なくされている。この国の人口は少ないので、75人と いっても日本の人口の約100万人に昇る。観察限りでは、ツバルが史上 始めて地球の温暖化によって沈む国とされている。  京都議定書が今年2月実際に発行された。いわゆる温暖化の影響となる CO2削減条項を定めたものである。経済を最優先させているアメリカは この京都議定書に参加していない事からみてもアメリカはさらにグローバル 的に評判を落とすであろう。アメリカだけでなく、日本は批准はしているもの の目標の10年後に14%削減するという目標はどうも達成の見込みが 少ない。楽観的であるのか、戦略的に振舞っていないのか、一気にCO2 を削減する技術が生まれることを期待しているのか?今のままでは 達成できないだろう。一方EU諸国はこのCO2削減目標は達成できそうだ。 経済的に沈滞すれども、この条項をEUは達成する。 ますます、EUの発言力は増すだろう。  今経済的に潤ったとしても、10年後、50年後を考えたら、この 経済より環境優先させるべきなのだが。未だ、環境税の導入はEUでは あるが、日本、アメリカは全く議論の的にもなっていない。  そもそも現在の地球温暖化の影響は産業革命の時のCO2の排出により 出ている。ということは、今のCO2排出はさらに50年後、100年後の 地球に影響を与えることになる。どうも、近視眼的なアメリカ、日本は そこを見落とし、近視眼的な景気、年金問題に関心が高まりがち。  そうしているうちにツバルはやがて海の底に沈んでいく。 あそこの地盤は珊瑚礁でできているため、いくら防波堤をつくっても 珊瑚礁に海水が浸透して、地面に徐々に浸水していく。 政府にもそれに対処する力もなく、技術的にも難しいだろう。 アメリカ、日本が沈まなければいいのか?ポストモダンの国である日本が 率先してそういう問題に取り組むべきではなかったのか?  こうして語っている自分もパソコンを使い、エネルギーを消費し、 地球の温暖化に貢献?している。快適さはいい。だが、一方で南側諸国に 大きな負担を与えていることに目を向けなければいけない。 これは単純に地球愛という問題ではなく、貧困な南側諸国の先進国に 対する怨念がたまり、テロの温床を防ぐ目的もある。  怨念は怖いですよ。9.11テロも現在イラクで起きているテロも 元々はアメリカがイラン革命に内政干渉し、イランがひどい貧困に陥った 事が問題であるから、その政治的怨念を解消しなければ、テロはなくならない。 過度のイスラム原理主義がテロの温床と言われることもあるが、宗教が 関係するというよりもそのような政治的な怨念があるからこそ、テロは起こる。  不可視の部分で人に怨念をかっている場合がある。気づかないのは仕方ないが、 気づいているのなら、敢えて気づかない不利をすることなく、不可視の部分の 可視化をしていきたいものである。
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まさみ

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