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生きものの記録

???????の画像  黒澤明監督の「生きものの記録」という映画は三船敏郎扮する70歳の 老人が突然、水爆の恐怖に強迫的に恐れおののく物語。水爆実験が 行われたニュースを聞いた三船演じる中島は全財産を処分し、 ブラジルなら安心と言われてたので、家族全員で移住しようと言い出す。 これに困った家族は必死でおじいちゃんを説得する。しかし、強迫的に 思いこんだおじいちゃんは、家族の「どうせ人はいつか死ぬんだから・・」 という問いかけに対し、すごい剣幕で「死ぬのはかまわん・・だが、 殺されるのは嫌だ!!」と豪語する。さすが三船敏郎すごい迫力だ。 この場面はある種ユーモアを感じるとともに一種の冥利を感じた。 果たして、水爆を創る人間が狂っているのかブラジルまで全財産 まで没収して移住するおじいちゃんが狂っているのか??  困り果てた家族はおじいちゃんに準禁治産者の申請をし、承認する。 そのショックでおじいちゃんは自分の持っていた工場を全て焼き払うという 暴挙に出た。そして、精神病院へおじいちゃんは送りこまれた。 精神病院の中で、ふとおじいちゃんが窓の外を見ると朝日が昇ってきた。 それを水爆だと思いこんだおじいちゃんは、とうとう世界に終わりが来た・・ とつぶやきラスト。  人はそれぞれ、偏りすぎているぐらい考え方が違い、偏りすぎている ぐらい世界の見え方が全く違う。スマップの世界に一つの花という メッセージは大きな支持を得たが、この偏りすぎているという自覚が ないと厳しい状況となる。オンリーワンはいいことばかりではないのだ。 オンリーワンということは全く根本的には分かり合えない事を意味する。 敢えて申し上げるなら敢えて分かった気になることはできる。 それで人は十分満足できたりする。こういう軽さも重要。 この物語のおじいちゃんは確かにかなり偏っていると思われるが、 その周りの家族、人々も偏っている。どっちが正しいのか? 答えはなし。結局全ての人がそれぞれ偏った世界観を持っている中で 共生していく道が大事なのだ。映画「パッチギ」のように・・・
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愛国心

 戦後吉田茂内閣総理大臣は、アメリカから一方的に与えられた憲法を 逆手に取って、アメリカに日本を軍事面で守ってもらう代わりに、 その間軍事費にお金をかけることなく、経済成長を最優先させた。 だが、経済成長を遂げた暁には日本はアメリカの保護下から離れるという 断固たる戦略的な愛国的な思想を持っていた。憲法9条の平和主義を逆手に 取り、経済成長を取るという戦略はなかなか狡猾ではないか?  この思想は田中角栄までの政治家までは引き継がれた。しかし、日本人の 忘却体質のためか、経済成長を遂げたらアメリカから自立するという当初の 目的を忘れ、今では完全にアメリカケツ舐め外交を行っている。  愛国心とは崇高なる国家と精神的に一体化するのではなく、逆に国に対し 操縦し、子々孫々の繁栄を考慮に入れることにある。まさに吉田茂が行った 戦略は自分が死んだ後の日本を考えた愛国的な振る舞いであったが、いつしか 忘れられた。  社会学では民主主義でもなく、専制主義でもない第三の道を歩むために 研究が進んだ。無政府主義者(アナーキスト)でもなく、国は必要であるが、 あくまで中間集団を最優先した。中間集団とは色々挙げられる。地方自治体 やNGOなど。あくまで近代主義者、私的自治の原則に基づき、地域に基づく 中間集団が中心になって進める。それで解決できない事は都道府県へ、それでも 解決できない事は国へ、それでも解決できない事は亜細亜共同体へと。 あくまで中心は中間集団であって、国はその中の一部に過ぎない。 まさに精神を一体化するような対象ではなく、国は機能の一種に過ぎない。  それならば愛国心とは愛郷心のことだという人がいる。それはそうですよね。 1度も会ったことのない人に対して愛着など湧くはずがない。あくまで 自分が生まれ育った場所や今住んでいる場所に愛着を感じる。 あくまで地域性のことを指す。自分が1度も行ってない場所、人、機関に 過ぎない国に愛着など感じるはずはない。そんなローカリティを地盤に 子々孫々のことを考えるのが愛郷心、愛郷心を守るためには国を操る必要が ある。そこで一応愛国心なる概念がでて、愛亜細亜共同体などもでるかも しれないが、愛という言葉に惑わされてはいけない。 あくまで自分が死んだ後の日本の繁栄を考えるならば、国に対して 敵対するのが愛国心の本義である。場合によっても謀反も論理的にはあり。

コミュニケーションスキル

 コミュニケーションスキル。この言葉がニート、ひきこもりの人々に 重くのしかかる。自分が就職活動を精力的にやっていた6年前でもどの 会社の説明会や面接対策本などを読む度にこのコミュニケーションスキル が大事だとされていた。6年前でさえ頻繁に使われたこの言葉、今ではさらに 重き言葉としてとらえられてしまっているようだ。 コミュニケーションスキルとは自分の思っている事を論理的に表現し 相手に伝える事だとすれば、これほど難しい事はない。 そうとらえてしまうとコミュニケーションというものが何か特殊な人しか できない特殊能力ととらえられがちで重くのしかかる。  そうではなく、コミュニケーションとは永遠に分かり合えないからする のであって、分かり合えてしまったらコミュニケーションなど端から必要 なくなる。永遠に分かり合えないからこそ、コミュニケーションのダイナミズム が生じる。たとえ論理的にしゃべれたとしても非合理なことのほうがこの 世の中多いので、別段特別なスキルとはいえず、普段やっている会釈や あいさつ、あいずちのコミュニケーションと何ら変わることはない。 ホリエモンを見よ。あれだけの東大中退で話上手と思いきや、誤解の 連鎖が続いているではないか。彼の話をよく聞くといかに誤解されているか が分かる。さらにマスコミに対するグローバルな視点でものを考えている。 日本国内問題としてとらえてないところが懐の深さを感じさせる。  どちらかというとだが、男性は特に共通前提0からのコミュニケーションが 苦手であった。それは俺はどこどこの大学でてこういう肩書きのもので 名前は何であるか?それを聞いてからでないとしゃべれない。 女性の場合は相手がどんな肩書きを持っていようと、意味のないコミュニケ ーションを展開できる人が割合的に多いように思える。 それは男性が肩書きをバックにアイデンティティを築いて来たのも一要因だ。  相手が何も分からずコミュニケーションするにはどうすればよいか? 正直どうもしなくてもよい。何気ないコミュニケーションで十分。 しゃべらず、無反応もコミュニケーションの答えの一種だ。 コミュニケーションスキルという言葉に強迫観念のようにとらわれることなく、 まず、たいしたことないのだという感覚を持ちたいものである。  口数が多い、少ないがコミュニケーションではなく、言葉がなくとも そこに人と人がいるならば、行動でのコミュニケーションもある。 そんな程度のものだ。言葉が発達する前にはそれで十分やっていけた。 無理に言葉を操ろうとすると頭ばかり使って疲れるばかり。 社会に出て行くのなら、ただ仕事に専念するだけでよい。 言われたことに、はいと返事する。仕事をする。それで十分。 コミュニケーションスキルなど数値化できるものではない。 目に見えないものなので、びびる面も分かるが、目に見えないからこそ、 臆することなどもない。物差しで計れないものだ。  コミュニケーションスキルなんて言葉いらぬ。

アイロニー

 9.11テロ以降特にネオコンなる思想の馬鹿さ加減が指摘される。 ネオコンの稚拙な外交戦略により、アメリカ帝国は地に落ちた。 あの国はやばい国だという認識が全世界にようやく広まった事が不幸中の幸い であったが、2度とイラク戦争のようなものを起こさせない為にも、ネオコン がいかにばかげだ思想であったか、歴史上忘れてはならない。ネオコンは 元々は弱者保護最優先であったが、一方余りにも弱者保護を優先させると、 国に甘え、タダ乗り、いわゆるフリーライダーが増えるという事で、 逆にいわゆるアメリカニズムに積極的に乗らないものは法的意思を貫徹 させるという非常に稚拙な戦略に出た。  高度成熟社会になると昔のように貧しさ故に犯罪を起こすのではなく、 逆に豊かで恵まれているのに凶悪な少年犯罪が起きたりする。それは 不透明な時代になったからで、人々がどんな動機で犯罪を起こしたのか? その分析が非常に見えにくく複雑である。そこで、そんな分析おいておいて とにかく厳罰な法的意思の貫徹で感情的に済ませる傾向がある。 9.11テロ以降、感情的に振る舞い、9.11とは関係のない イラクを結び付けとにかくぶっつぶすやり方が典型だ。  便利さ、快適さ、合理的なものを是とするアメリカニズムは確かに 典型的でマクドナルドを象徴的にムスリムの人々でさえそれには抗えない。 自分自身反米路線ではあるが、マクドナルドにはついつい行ってしまう。  そこでアイロニー(皮肉)が生まれる。南側諸国もアメリカニズムに憧れ、 それまでアメリカに頼らずとも自立的相互扶助の中で、一見アメリカ側 からは貧しく見えたとしても満足して自立して生活してきていた。 しかし、アメリカニズムなるものを導入し近代化を目指し、今まで 大事にしてきたその地固有の作物を捨て、外国資本に売れる換金作物に 換える事により、その国固有の文化が壊されていく。さらには換金作物が 買い叩かれる事によってますます貧困に陥るというアイロニーが待っていた。 いわゆる南北問題の根っこの問題である。  1度便利さを知ってしまうとそれから逃れるのは難しい。だが、その国 固有の文化、環境は破壊されて、世界どこにいっても入れ替え可能な世界。 流動的な世界が待っている。それには耐えられぬとしたのが、今のEUよりも 遥かに昔の思想である亜細亜主義である。西郷隆盛に端を発し、特に岡倉 天心が主張した亜細亜主義は、確かに近代化はよい、だが、単純に西洋近代化 を主張したならば、資本のみならず、文化さえアメリカに支配されてしまう。 それを危惧した亜細亜主義達はそれに抗うために、亜細亜共同体を創ろうと した。今では、禁句とさえされている大東亜共栄圏なるものは、唯一近代化に 成功した日本を盟主をした亜細亜共同体を創ろうとしたため、日本一国に 支配される事を危惧した亜細亜諸国は苦渋の選択を迫られる。 だが、当時帝国主義時代には日本が植民地侵略をしなくても、亜細亜は米英 にすべて侵略される勢いであった・・・中には日本の植民地政策を歓迎した 人々もあったほどだ。なんといっても、日本は米英に比べれば遥かに残虐な 行いはしなかった。特に韓国併合において・・  戦争を知らない自分が語る資格はないかもしれないが、戦争をなくすには 戦争を知らなければならぬ。そしてあの当時独特の戦争が是とされていた 歴史を知らねばならぬ。欧米では近代化してない国の人々など人間扱い しないのが当たり前であった歴史を知らねばならぬ。  現在近代化の流れは止められず。かといって環境保護、文化的保護も優先だ。 それには単純に反近代を主張しているだけではだめだ。近代化に対して 近代化で勝負するのだ。近代の技術を用いて、風力発電など自給自足できる エネルギーを調達できるシステムを構築する。アメリカニズムに頼らずとも 逆にアメリカが得意とする近代化、マクドナルド的な技術を逆手にとって 対抗する。  ナンジャタウンのような昭和30年代を彷彿とさせるものは団塊の世代を そこに歩ませるが、これは近代化によって生まれた技術によって生まれたもの。 そこにアイロニーがある。自分の固有の文化を守るために、その文化を壊した 近代化を利用する。まさにアイロニー。だが、このアイロニーのセンスこそ、 アイロニカルな振るまいこそ、アメリカニズムに反抗できる手段である。  アイロニーそれは、人それぞれにも当てはまる。だが、そこに言葉に尽くせぬ 深さ、冥利が含まれる。これさえ手に入れば、自分は幸せになれると思って いたもの手にした途端、虚しさにとらわれる。そのアイロニーがオモシロイ と感じられるかがカギだ。

お引越し

 お引越し という映画は主人公の小学6年生のレンコの精神的成長を 描いた映画である。近代化する前はある共同体ではある儀式を通じて大人 になるなど、儀式を通じての子供から大人へとある種無理やり成長を 位置付けた。儀式には独りで山の奥地に入り、虎狩りをしてくるなど・・ しかし、近代化した社会は複雑であるため、単純な子供と大人の区別は なく、その中間にモラトリアムと言われるいわゆる学生という期間があり、 その中で社会人になった時の為の、動機付けとマニュアルを学ぶ。 複雑な社会では多用な職種があり、単純な儀式だけでは、自分に合った ものを見分けられないからだ。現実問題、教育の面において、何の為に 勉強しているのか?その動機付けが失敗しているのだが・・  それはさておき、この映画のレンコの両親は離婚することになり、父は 家を出る。喧嘩の絶えない日々であったが、どうにか、両親の中を取り戻そうと 必死なレンコ。そして、レンコは去年行った琵琶湖旅行を思い出し、そのとき、 いかに家族が仲がよかったのを思い出し、再び無理やり両親を琵琶湖旅行へと 誘う。そうすれば元のような関係に戻れるかもしれないと思い・・ しかし、相変わらず、両親は全くうまくいかない。 そんな折、レンコは独りでホテルを飛び出し、琵琶湖の祭りをたまたま見る 事となる。そこでは、幻想と思われるような火を使ったお祭りを目撃する。 意味もわからず、火をもって走る人々や子供。それはもうすさまじい祭りだ。 食い入るように見る中、レンコは森の中をさまよい、疲れ果てて眠りかけた 途端、琵琶湖の中でみこしをかつぐ人々を目撃。 さらにその横にはレンコ自身も含めて両親達が過去のように楽しかった頃 のように、水かけをしたりして楽しんでいる。しかし、すぐにそのような 楽しい光景は水の中へと消えていく。そして取り残された分身のレンコを 抱きしめるレンコ。そして、分身も消えていく。その時思わず、レンコは 「おめでとうございま〜す!」とその幻想が見えた琵琶湖に向かって 繰り返し、叫ぶ。  その後急に消えたレンコを必死に探していた母親が見つけ、無事旅行を 終える事になる。帰りの列車の中で、母親と以前と変わらぬふるまいで、 接するが、精神は大きく変わっていた。両親の離婚問題などくだらない。 もっと大きなものを目撃したレンコ。それはレンコにとって無意識下で 起きた大変革であった。祭りを通しての成長。非日常を通しての成長。 自分だけの儀式を通じての成長。それは自分だけにしかわからぬかもしれぬ。 さらにその周りからは見えぬその儀式を通したとしても見た目には 何も変わらぬ日常が始まる。だが、自分だけは分かる、ある種の強度 を獲得したと。無意味に見える祭りなどに実は生活よりも、いや、生活を 支える何かが隠されている。 共同体が崩壊した今祭りも下火。だが、ねぶた祭りなど大規模な祭りに 1度参加するのもよいかもしれない。わざわざそこまでしなくとも、 いつも通っている道と違う道を行けばそこに自分だけの祭りが待っている かもしれない。

ほりえもん?

 今日東京高裁でフジテレビの新株予約件発行差し止めの判決がありましたね。 これで、ライブドアによるニッポン放送の経営権を握る可能性が出てきた わけだ。それにあたってマスメディアの報道を見るとなぜか、ほりえもんが いかにジャーナリズムを知らないか、ビジョンを持っていないかを指摘して いるが、個人攻撃は視聴率や発行部数につながるからやっているのだろうが、 この問題はほりえもん個人攻撃で終わらせてはいけない。  確かにほりえもんはジャーナリズムについて無知に近い。だが、それが どうした。それならば議論すべきは日本のジャーナリズムに浸透している 記者クラブを代表とする、銀行で例えるなら護送船団方式ではないのか? 首相の記者会見に出るには記者クラブに加盟してなければいけない。 だが、加盟しているのは大手ばかりで結局政府と癒着関係になり、マスコミ が統治権力を監視する役目を負っているのに、逆にコントロールされている 事は前に述べた。まるで戦前の朝日新聞による戦争扇動の報道のように・・。  ライブドアがニッポン放送の経営権を握る事ができるのならば、ライブドア の社員が記者として、記者クラブに入れるようになる。これは画期的なこと である。ほりえもん自身記者クラブのことさえ知らなかったようであるが、 そんなこと教えてあげればよい。議論の的は個人攻撃ではなく、マスコミの あるべき姿、ジャーナリズムのあるべき姿である。個人攻撃で終わるなら、 しり込みしてほりえもんが失敗した後、後に続くものがでなくなるではないか?  さらに新聞の宅配、再販制度も問題。こちらが側で紙面をみて買うのではなく 勝手に宅配されてくる。これでは、大手以外の小さな新聞社は勝ち目はない。 街で手にとってみて、毎日その人が選択するようになれば、民度もかなり 上がる・・・かもしれない。  テレビの画質が10Mだとして、既にADSLでも十分同様、それ以上の 高画質を安価に提供できる。さらに光ファイバになれば、尚更、テレビが なくなるという発言も間違ってはいない。ただそれはインフラの部分で 電波という負担の多いシステムではなく、インターネットを使った部分に 変わるだけである。さらにインターネットというとどうもパソコンを 想像しがちであるが、今のようなテレビ形式でネットにつながるように すればよいだけの話。インフラの部分では確実にインターネットに変わる。  ネットとなると、誰もが参入離脱となる世界。色々な番組もサイトも 創られる事である。現にサイトで言えば現在無数。だが、ここで問題なのは あまりにも選択肢が増えると人は自分の心地のよい番組、サイトしか 見なくなることだ。多種多様な番組ができても結局は偏った報道しか 観なくなる可能性もある。事実上マスコミが競争社会であるアメリカでも 結局はFOXテレビしか観ず、未だに9.11テロはイラクがやったと 思っているものも多数いる。  匿名性が売りのインターネットではあったが、mixiに代表される 匿名ではなく、名前を出すコミュニケーションに立ち戻る動きもある。 2ちゃんねるを代表する匿名のコミュニケーションもそれなりの価値が あり、無数の人が集まる。しかし、mixiのような名前を出すコミュニケー ションとなると、人数は限定され、非常にローカリティなネットでの コミュニケーションが展開される。かつてパソコン通信のあった頃、 非常に紳士なコミュニケーションがなされた。しかし、匿名性が強く 手軽にネットができるようになると、誹謗中傷、荒らしも相次ぐ。 ただ、そこにもイイ点も千羽鶴オフやマトリックスオフなど祭りという ものが少なくなる中で非常によい感情のカタルシスを得られる部分もある。 サッカーのワールドカップで意味もなく盛り上がった日本人のあの体質だ。 ただ日本人は祭り体質である反面、忘却体質であるのが、問題なのだが。  コミュニケーションも多様化しているが、結局は顔の見えるコミュニケー ションに実りを覚える人も増えているようだ。コミュニケーションスキルに ついて改めて書きたいと思うが、そんなスキルなど特殊能力ではなく、 ただあいづちを打つだけでもコミュニケーション。笑うのもコミュニケーション。 コミュニケーションというものは何か特殊な人しかできないように思い込むと 同じ人であるのに、コミュニケーションごときで怖がり、社会に出れなくなる。 話はずれたが、マスコミを始め時代は急速に変わっていくだろう。 若い世代の人にとってはチャンスだ。

パッチギ

パッチギ!の画像  現在公開中の「パッチギ」を拝見してきました。黒沢清監督が言うように 映画は家でレンタルビデオ借りてきてみるものは映画ではなく、まさに 全く感動しないものもあれば、笑うものもあれば、泣くものもあるまさに 1度限りのライブである。映画館というのはそういうところ。見知らぬ他人 の反応もその日その時間帯だけで起きたオンリーワンの現象。 もっと映画館の入場料が安くなればもっと行きたいものだと改めて感じた。  パッチギは韓国語で「頭突き」という意味。1968年の京都を舞台にした 作品で、東高校空手部と敵対する朝鮮高校との喧嘩を描く。日本側は型に はまった空手であるので、滅法喧嘩に弱い。一方喧嘩を知っている朝鮮側 はパッチギなる喧嘩を知った戦法で優勢。それでも日本高校側も奇襲攻撃 などで応戦。何度も何度も喧嘩の場面が繰り返される。朝鮮と何の歴史も 知らぬ日本の高校生の間では分かりあえるはずはないのだが、それでも 喧嘩というスタイルであるが、ある種の言葉にできぬ、共生が描かれる。 人間なんて理解しあわなくても共生はできるのだと。。  そんな中、主人公の康介は朝鮮高校のボスの妹に一目惚れしてしまう。 彼女がフルートで弾いていた朝鮮の悲しい歌「イムジン河」それを自分も 弾きたくなりギターで練習し始める。腕前は確かであった。。  何度も喧嘩が起きる中で朝鮮高校のボスの仲間が喧嘩後交通事故で死ぬ。 そして葬式。その死んだ仲間は康介に「本当は俺達も喧嘩怖いんだ。よかったら 俺にもギター教えてくれ」と話していたばかりであった。 康介も葬式に参加しようとするが、朝鮮の人からおまえら日本人はわしら、 朝鮮の歴史を知らぬ。今知らぬということは今後もますます知らぬ。 出て行け!と喝破される。  とぼとぼ帰る康介。それを見つめるボスの妹。康介はやりきれない思いで 橋で大事にしていたギターを叫びながら破壊する。分かり合えぬいらだたしさ。 腕前を認められていた康介はラジオのフォークソングコンテストにギターなし で向かう。演奏する気がないが、康介の実力を認めていた男が是非歌って くれ!とせがむ。だが、上司が朝鮮の歌である「イムジン河」を歌う事は 放送で禁止されていると差し止めようとする。しかし、その男が何が 禁止だ!憲法で表現の自由が認められているんだ!っと上司を連れてぼこぼこ にし、康介に「イムジン河」を歌ってもらう。康介の歌は葬式にいる人にも ラジオで聞かされ、また、一方またまた日本の高校と朝鮮高校の大喧嘩も 始まっていた。そんな中朝鮮高校のボスの子供も生まれそうな自体。 喧嘩を辞め、子供のところに向かうボス。  「イムジン河」の音楽の流れる中で様々なミメーシスが起きる中で、 自分は感涙した。久々だ。こんな泣いたのは。映画館の観客も泣いている 人多数。人同士分かり合えぬ。まして民族同士だとなおさら。 だが、共生はできる。そこに言葉を絶したものがあった。 この作品は間違いなく自分のベスト10映画に入るであろう。  

影武者

影武者の画像  カンヌ国際映画祭グランプリに輝いた黒澤明監督の「影武者」という映画には すさまじさを感じる。黒澤作品は全作品を観たが、ベスト5には入る作品だ。 当時主役に抜擢される予定だった勝新太郎がクビになり、仲代達也が主役を 代行するなど製作の面でも数々のエピソードのある作品だ。  この作品は言葉にできぬ世界。まさにプラトン以前の無文字文化時代を 思い起こさせる人が人に対する想像を絶するミメーシス(模倣)が描かれる。 時は戦国時代、武田信玄は影武者を探しだし、自分そっくりの単なるコソ泥 を自分の影武者に抜擢する。当初影武者なるコソ泥はいやいやであったが、 武田信玄という人物に1度会っただけでその存在にミメーシスされる。  影武者としての指南を受ける中、実際に武田信玄は敵の銃弾に当たり死去。 配下達は信玄公の遺言の通り、3年間は自分の死去を隠す為に、例の影武者 を本物の武田信玄として扱う事にした。ご存知の通り、武田信玄といえば、 風林火山。特に動かざるごと山のごとし。何を刺激しても、信玄公は動かない ので、甲斐の国は織田信長にとって目の上のたんこぶであった。  自分にそんな大役勤まるはずはないと感じながらも一部の配下以外には 本当の信玄公が死んだ事を知られずにすごす日々が始まる。身近な人にも ばれては一大事のため、それはストレスのしいられる日々であった。 もし、信玄公が死去したことが公になれば、すぐさま織田信長勢力は攻め入り 甲斐の国は滅びる自体であった。  ある日戦が起きる。それまでは何の貫禄のない影武者なるコソ泥であった が、戦が苦戦を強いられる中、単なる影武者を守るために部下が死んでいく。 それを見て、信玄公の魂が乗り移ったかのように、影武者に命じていた しゃべるな!!という命令を破って、まだ攻め入ろうとする武田軍に対して 「動くな!」と突然怒号を浴びせる。まさにミメーシスだ。武田軍は命令どおり 冷静になり、動かざるごと山のごとし。敗戦にならずに戦いきったのであった。 まるでそこには故武田信玄公がご健在であったように・・・その場面に自分は 震え上がる思いがした。  さらにはなんと3年影武者としてばれずにやりこなすのだ。だが、ばれる 時は来る。それを知った織田信長は3年もまるでいるかのような戦略を とった信玄公に対し、有名な「人生50年〜」という有名な能を演じる。 その演技たるや、一目に値する。  ばれた影武者は金を渡され、首になり、人々から罵倒される。 そのままお金はあるのだから、影武者になる前ののうのうとして生きていた コソ泥の頃のようにのうのうと遊んで暮らせばいいのだが、ミメーシスの 力たるや、恐ろしい。着の身着のままで、あの有名な長篠の合戦にのこのこ 姿を現す。そして、意味もなく、敵の銃弾に倒れ死んでいく・・・  まさに人生夢の如しである。。

学力低下

 若い世代の学力低下や体力の低下が問題視されることがある。 だが、時代時代で要求される能力というものは異なるため、単に 30年前と比べて学力や体力が下がったところで大騒ぎするもの ではない。重いものを持つ事が要求された時代にはそれは体力も 要求されたでしょう。役割とマニュアルに基づいた仕事を要求 された時代には、言われた事をそのままできる能力が要求された でしょう。ですが、今は重いものを持つ必要性が30年ほど 前と比べて格段に減っている。ボタンを押せば何でもできる 時代であるから。工場労働者を養いたいのなら朝9時に出社し、 夜6時まできっちり仕事できる規則正しい生活ができる人間が 養成されたかもしれない。  だが、現在は高度成熟社会となり、豊かな時代となった今では 仕事にも多種多様なものがある。肉体労働もあれば、頭脳労働も あれば、芸術的な労働もある。特に創意工夫のできる人間が 求められている。つまり、自分で決定して自分で責任を持てる人間 である。  変わりつつはあるが、現行の学校制度の元では上から与えられた ものを学生がこなすしかない。そうではなく、小学校からでもよい。 大学のように授業選択性を導入する。国語が好きならそれを選べば よい。体育が嫌いなら体育を選ばなければ良い。1学期ごとでも1年 ごとでもいいが、多種多様な科目の中から自分の判断で選ばせる。 その過程の中で選択ミスをすることが多く出るだろう。 だが、与えられた授業ではなく、自分で選んだ授業なので、 それは自己責任である。そしてまた、自分で選択していく。 その試行錯誤の中で、失敗してもいいのだという感覚。 失敗したら試行錯誤してやり直せばいいのだという感覚が得られていく。 特に日本は中国の科挙制を導入してしまったので、何でも失敗を 恐れる習性がついてしまったようだ。  失敗しなければ何も習得できず。失敗したことのない人間は失敗 が震えるほど恐い。失敗体験は自らの判断で小さいうちから積み重ね ていった方がよい。もちろんそこには大人の介入も必要だ。 様々な壮絶な人生を生きた大人を見て子供は学習して、それを 選択の判断材料にする。こんなに失敗してもなんとかなるものだと。  科挙制のような受験勉強地獄に自分も陥った事があるので、 失敗というものをひどく恐れ、完璧主義に陥った。 しかし、そこには与えられたものの中の失敗のみがあるに過ぎず、 自分で選んだ道で失敗し、自分でその尻拭いをする経験が不足がち であった。  大学生になって急に授業選択性になり、選べなくなる学生が 多数いるというが、こんなことにもならないためにも早くから 授業選択性の導入をしたらどうかと自分は考えている。

ほりえもん

 ライブドアのほりえもんが世間を賑わしている。彼は感情的に振舞って いるように見えるが、戦略的に振舞っていると自分は感じる。 大体5社か6社のメディア会社がテレビも新聞もラジオも放送権を 独占している。ましてや記者クラブに入れるのは大手メディアだけ。 ほとんどのマスコミがなにかしらの人間的な貸し借り関係が政府や 政治家にあるため、記者クラブで得た情報は政府にコントロールされる。 つまり記者クラブという古い体質の制度下では、我々、市民は事実を 知るべくもない。統治権力に操作された情報を得ているだけである。 本来はマスコミは統治権力を監視し制限するもの。それを逆に コントロールされているのだから言葉もでない。  30代ぐらいの人にこのほりえもんのライブドアが日本放送の株式取得 に対し賛成の向きがほぼ大半だが、50才代になるとあれは、違法だと 噴きあがる。今までマスコミには新規参入がない中で、既得権益に 甘んじていたマスコミの特に50代のの人達にとっては当然の主張 であろう。  だが、本当の公共性とは何か?それは多様性の事でしょう。様々な マスコミが新規参入して様々な角度からニュースを報じる。また、 インターネットを通じて見たい番組を見たい時間に見れるようにする。 多様性こそが公共性で、それによって偏った報道が抑えられる。 雑誌に関してはかなりの種の雑誌が出ているので、多様性による 公共性はある程度守られていると思うが。  ただ災害情報のみはNHKにはやってもらう必要がある。 統治権力には市民の生命を守る義務を負っているのだから。  この騒動を見て、不安になるか、面白いと感じるか、難しいところ であるが、若い世代の既得権益にむらがないものたちにとっては大変 チャンス。ほりえもんが失敗したとしても後に続くものが出るで あろうから、応援しないわけにはいかない。  ちなみに自分はインターネット放送で最も長く続いていると思われる 『丸激トークオンデマンド』を拝見している。スポンサーをとっていない ので、スポンサーに気を使わず、言いたい事を言っているので見ていて 大変見ごたえがある。このようなインターネット形式の番組は 増えると見込まれたが、まだまだのようですね。ただこの番組 見るにはウェブマネーを買って500円かかります。 ただテレビが無料と思っている人がいるかもしれませんが、 あれは広告費によって成り立っているので、結局は物価が上がる事に なり、複雑に言えば無料とは言えない。 情報過多でわけがわからない時代とはいえ、統治権力のコントロールに よるマスコミ報道に不安になるのはやめたいものである。
プロフィール

Author:まさみ
ブログはこちら一本でやっていくことにします。

パソコンできる環境が作れず、こちらのブログのほうがスマホでも扱いやすいからです☆

よろしくお願いします。
⊂⌒っ*-ω-)っ

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