スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ニンゲン合格

ニンゲン合格の画像  14歳の時に交通事故に遭い、昏睡状態に陥った青年が10年後 24歳の時に目覚める『ニンゲン合格』という映画がある。 自分の中でベスト1の『アカルイミライ』の監督の黒沢清監督の 作品なので、現代に漂う見えない部分をうまく描き出している。  心は14歳のままの24歳になった青年は失った10年間を取り 戻そうとする。既に家族はばらばらになっていた。友人も成人しており、 それを取り戻すのは至難であった。しかも、目覚めた青年、豊を出迎 えたのは役所広司扮する藤森という父親の友人の少し風変わりな男 であった。青年、豊はただただ寡黙に失われたものを取り戻そうとする。 失われた家族、友人。自分の実存?必死に取り戻そうとするが、それは 叶わない。家族と会っても友人と会ってもどこかちぐはぐ。 それはそうだ。10年間の空白の期間があるのだから。 その10年は脱社会化していた状態だ。風変わりな藤森もまともに 社会で生きれない脱社会化した中年の男。  失われたものを取り戻そうとしていた豊はそもそも失われたものなど 最初から存在しなかったのではないか?と感じてくる。全ては幻想では なかったのか?14歳までの実存の枠で飛躍して家族や友人をとらえて いなかったのか?豊は家族再生の為に、昔父親が経営していたポニー 牧場の再建につとめていたが、豊を交通事故ではねた男自身が突然 現れ、お前のせいで、俺の人生をむちゃくちゃにされたとうまく いってきていた牧場を壊しはじめた。怒ると思いきや豊は自ら 牧場を破壊する。豊は現実を受け入れたのだ。既に社会から浮遊した 脱社会的な存在になってしまったことを・・・  しかし、同じく脱社会的な人間であった藤森と別の土地でやり直そうと 決心する。たとえ、事故に遭わず、昏睡状態にならなくても家族がうまく いき、友人関係もうまくいくとも限らないという反実仮想に気づいたの であろうか?  だが、藤森と旅立つ、直前スクラップの下敷きになって、命を 失う。豊は死ぬ直前『俺って存在してたんですかね?』と藤森に 問いかける。家族でも何でもない藤森は『あー存在した!』と 叫ぶ。  そもそも現実世界は本当に存在してるのか?分からなくなる事は ある。だが、存在している。この世がはかない夢のような幻想だと してもそれはその人の実存として存在する。それを豊を一番理解して いたのは見ず知らずの脱社会化した藤森であったと思われる。 『俺って存在してたんですかね?』 『あー存在しているよ。たとえまともな生き方をしてなくても。』
スポンサーサイト

ウォシュレットから紙へ

 日本の食料の自給率は約40%。ほぼ輸入に依存している。 一方フランスやアメリカは100%を超えており、ドイツも100 %に近く、EU圏は自給率が100%に近い国が多い。ただこれは 食料に限ってのことで石油などのエネルギー資源は他国の輸入に 頼っているのが現状である。  石油資源が残り何十年、何百年持つか分からないが、石油資源を 巡っての争いは相変わらず、絶えないだろう。というより特にアメリカは 石油にこだわり、代替資源に変えようとしない。風力発電は実はかなり 有力なものとされている。あまりにも有効なので、原子力発電関係の お偉いさん方が反対してるので、発展しない。つまり原子力発電なる 高度な技術を持って得るのに比べて風力発電は単に風のエネルギーを得て エネルギーを蓄えるだけ。非常にコストが安く、風力発電ばかりが たつようになってしまったら、原子力発電会社はつぶれてしまうからだ。 ただ風力発電は環境に左右されやすく、エネルギー調達量は原子力より は劣る。また、石油の代替資源なるものも色々検討されているようだが、 資源の枯渇化は避けられず、生活水準は今より下がる事は間違いない。  日本の経済も今後右肩下がりで落ちていくという見方が専門家に 多く見られる。ここまで高度成熟社会となった今、経済成長といっても たかが知れている。三種の神器と言われた、「白黒テレビ」、「 電気冷蔵庫」、「電気洗濯機」はどの家でもあり、現代では携帯も 1人に1台。他に何を求めるか??後はハードウェアの面ではなく、 ソフトウェアの面での細かい争いにすぎない。携帯の新機能がどうだ こうだとか・・それは否定するつもりはなく、高度成熟社会では、 ソフトウェアで満たしていく部分は大事な事で、特に創作系ですね。  物の豊かさに恵まれた世代が今後、生活水準が落ちていく事に 耐えられるかが問題となってくる。アメリカニズムなる合理主義、 便利でさえあればなんでもいいというスタイルを捨て、例え非合理でも 不便な生活に耐えられるか?ウォシュレットなるものがありますよね? あれは全く持っていらない。ただ1度ウォシュレットなるものを知って しまうと、どうもただ紙で拭くだけでは我慢できなくなる。1度 贅沢の味を知ってしまうとどうも戻れなくなる。 ウォシュレットがなくなり、紙で尻を拭く生活に耐えられるか? コンビニ・ファーストフード店のない生活は耐えられるか? 携帯のない生活は耐えられるか?  アメリカニズムに支配されるとどうも生きてる心地がしなくなる 事がある。自分が一歩も動かなくても自動で洗濯機は回り、乾燥機は 回り、食事はコンビニ弁当、電話機まで歩かなくても動かないで携帯電話 でき、水も井戸水をくまなくてもすぐに出る。井戸水は極端かもしれない が、水を汲むにしてもそういう不便さに日本らしさ、文化、アメリカニズム に対抗するものがある気がする。  日本経済は恐らく停滞するだろうが、今の若い人々は物の豊かさに うんざりしている面があると感じ取れる面もあるので、そういう生活 水準を下げた生活に耐え切れなくもない気もしないでもない。 そこにただただ合理主義、便利であれさえすればよいというアメリカ ニズムから脱し、日本ならではのアメリカに対抗する何かが生まれて いく気がする。

クジラの島の少女

クジラの島の少女の画像  ニュージーランドの小さな村を舞台にした『クジラの島の少女』は 世代を超えた懐かしさを感じさせる。村共同体が崩壊し、終身雇用制が 失速していく中で会社共同体も崩壊し、さらには学校教育改革により 学校共同体も崩壊していく最中にある。そんな中でこの映画は濃密な 村共同体を描いている。  ただこの村にも近代化の流れは止められず、村を離れる者が続出 していた。そんな中、救世主を村では探していた。救世主と目されていた 子供は女であったため、落胆した。しかし、その少女は女という偏見に とらわれずに、救世主になろうと努力する。  こういうストーリーはある種ありがちであるが、幻想となった共同体 に、現代成熟社会の中でこの光景を見るとある、世界のすごさ!に ミメーシス(模倣)される。昨年末グアムに行った事もあり、ニュージー ランドの綺麗な海、クジラと心が通じる少女にはなんともいえない 安らぎを覚える。  一方対照的に頑固な親父、救世主は男でなければならない!と思い 込んでいた親父が、少女がクジラを救う場面を見て、世界のすごさ!に 感染して、呆然するとともに、自分自身は深い感動を覚えた。  海の世界はまさに、神秘の世界。社会とは格別された世界だ。 しかも海の方が遥かに地球上の大半を占める。その一部分で 社会は存在する。    脱社会のものが社会システムををうまく回すこともある。 社会でうまく適応できないものがうまく社会システムを回して いることもある。社会過剰適応のものは、世界のすごさ!に触れた 瞬間に崩れ落ちがちである。 

憲法第13条

痛快!憲法学 ― Amazing Study of Constitution & Democracyの画像  日本国憲法 「第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福 追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、 立法そ他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」 日本国憲法というと第9条が取りざたされる事が多いが、憲法の 中枢はこの第13条である。  以前も書きましたが、憲法は国民が守るものではなく、統治権力(国) が守るべきものなのである。つまり憲法は国民が国家を操縦する為に ある。  昨年4月にイラクで人質事件がありました。その頃自己責任論などで イラクに行ったジャーナリストやボランティアの方が非難の的になり ました。しかし、それは自己責任とは全くおかど違いの問題である。 統治権力は全力を持って、国民の生命を守る義務を負っているのだ。 批判の理由として、お国に迷惑かけて、税金を無駄遣いをしやがって 等々ありましたが、根本には国(おかみ)には迷惑をかけては いけないという国を上にみる日本人の気質があるからである。 民>国であるというのに。イラクの問題は深刻です。その中で ジャーナリストとして、ボランティアとしてイラクに行ったのは 本来はリスペクトされる行為であるはずであったのだが。 だからこそ、国は外務省の者が寝れなかったと言っていたが、 寝ないで、国民の生命を救う義務を背負っているのだから 寝ないで、やれよ。文句言うなよ。ということ。つまり統治権力は 憲法を理解していない、無知教養をさらけだした醜態であった。  さらに、これは自己責任としか思えない香田証正さんのケースは 確かに、自己責任であるが、それでも国家は全力で救う義務がある のだ。いくら、前科歴のあるものでも、道端で倒れていれば、救急車 を呼ぶのが当然のことと同じことだ。国民年金の積立金が役人の 遊興費に使われていたことや税金の無駄遣いに比べればはるかに 人命救助が税金に使われるのは、納得いくのではないでしょうか?  国民年金制度は確かにひどい。法改正さえすれば、一歩進んだという 公明党の言い分には反吐が出る。内容があれでは、ため息でるばかり である。憲法改正も法改正もしても無駄な事が多い。それは国民の 民度が低い事さることながら、政治家の資質が低い事もあげられる。  おかみ、おかみに頼るのではなく、今や地方分権の時代。 自分で試行錯誤して、制度を熟知せねば、国民年金制度も 変わらないであろう。民>地方自治体>国という図式を 忘れずに、国がこういっているから正しいというのは全くナンセンス なので、国の価値観、空気でできている社会の価値観に振り回されない ようにしたいものです。これは、日本人の体質として、会社もおかみ、 おかみと仰いでいる面もあって、働きづらくなっている面もあると 思う。あくまで企業と従業員は契約上にすぎないおかみ、おかみで 仰ぐ必要はない。対等(ピア)の関係でいきましょう。

マトリックス(仮想世界)

?????? ROM?????の画像  ドラクエ?はどんな感じでしょうか?自分は?〜?まではやりましたが、 今回は買っていません。今までと比べると大分立体的でよりはまりそうな 感じもします。ただ社会と同じでゲームも複雑化するとゲームの プレーヤー同士のコミュニケーションも狭くまた閉ざされたものと なりがちになる。また、ゲームの映像があまりにもリアルすぎて、 自分らの世代(1970年代後半生まれ)からするとひく。 ドラクエ?は未だにアニメチックでゲームらしさを保っていてつい 安心してしまいますが。  『マトリックス』という映画があったが、何故ネオは マトリックス(仮想世界)に対して怒りを放ったか? それは仮想世界がとても超越的な存在とは思えない人為的に 創られたプログラムに過ぎなかったからだ。 マトリックスの世界が人為的な世界でないとしたら?それが超越的な 何かによって創られたとしたら?そうであるならば、わざわざ真実など に怒りを向けず、マトリックスの世界に安住することも十分納得いく 選択肢である。アニメ版のマトリックスの映画『アニマトリックス』 を観ると人々が真実を知りながらマトリックスの道を選んでしまう 様子が描かれている・・  さらにマトリックスを皮肉った『アヴァロン』 という映画を観るとそこにはリセット不可能な仮想世界の世界が 描かれる。ひとたび、仮想世界であってもリセット不可能になれば、 それは現実と全く変わらなくなる。ゲームの世界で死んでもリセット すれば、またやり直せるが、死んでもやりなおせないのなら、それは 現実とほとんど遜色なくなる。  ここで、自分はゲーム批判をしたいのではなく、そのゲームの濃密さ を十分に堪能したらよいと思っている。仮想世界の世界は深い。それは 現実に害を及ぼさず、人間に濃密さを与えている点で、物の豊かさが 限界点に達し、様々な問題を起こしている高度成熟社会において1つの 解決策の1つであると思われる。  現実とゲームの世界が区別できない若者が増えていると批判される 事があるが、ゲームの世界を熟知しているものほど区別できて、享受 している。そもそもその批判は、厳しいもので、戦前の天皇を現人神と 仰いで、1つの国家共同体を築いた日本も幻想と言えるわけだし、 共産主義も幻想だった。そのような幻想の方が余程現実と非現実を 区別できていない恐ろしいものといえよう。  ただ自分は複雑化するゲーム界にはついていけなくなったので(笑) パンチ力測定するゲームやカーレースゲームをゲーセンでやるのが 面白いですね。特にカーレース系は車運転するようになってからは ホント面白いです。280kmの速度とかを普通の街の道路で 出せてしまうのはゲームならではのギャグですね。 ユーモアというか。ゲームはゲーム。ある〜主義などに没頭して しまうより、ずっと軽くてユーモアがあって濃密さがあると思います。

自由と不自由は表裏一体

 今月ついにイラクで選挙が行われる。選挙をどうにか実現させる為に ファルージャ掃討作戦なるものをして、民主的な選挙をやるのもどうか と思うが、選挙実現してもそれは正当な選挙ではない。反フセインの シーア派のみが選挙に参加し、フセインも属するスンニ派は参加しない 選挙なので、それはシーア派に有利な選挙になるに決まっている。 救いはスンニ派の候補者も選挙名簿に載っている事ぐらいであろうか?  そもそも、民主化することは絶対的に良いことであるとアメリカ人 は思いがちである。特にソ連崩壊後さらに民主化は絶対的に良いことで あると当たり前のように信じがちである。だからこそ共産主義的、独裁的 な国を悪の枢軸国のように民主化させようとする。  イラク政策において日本のアメリカの戦後統治を参考にしている面も あるようだ。日本においてアメリカの民主化は成功をおさめた。日本人は 日本人でたいして分からなく、憲法万歳とそれを受け入れた。 なかなかそこが日本人の面白いところであり、あるいみ日本人の 知恵が深いとみるのである。知恵というかその場の空気のみが行動原理 となる日本はかなり特殊であるが。何も分からず、民主化を受け入れた 日本は民主化とはなんたるか、憲法とはなんたるかを未だに知らない。 根付いていない。それは今後教育制度改革、エリート教育養成の中で 変わっていくと思われるが。  代表的な例として民主化は恐ろしいとされている。プラトンの時代 に民主主義は悪とされていたそうだ。無知な民衆に政治を任せておくと 暴走するから、教養のある政治化・哲学者が国を治めるべきだと。 その場合体制は独裁体制に近くなる。 殊にあのヒトラーのナチスは正式な民主的な手続きによって成立した。 ヒトラーはユダヤ人大量虐殺を目をつぶった場合、天才的な政治手腕を 発し、失業を一気に解消し、経済的に驚異的な回復を遂げた。 それを民衆はもちろん支持した。それも盲目的に。 無知なといってもいいだろう。無知な民衆はナチスを民主的に支持し あれだけの無惨極まりない結果を生んだ。 民主主義は一見自由だと思われがちであるが、自由であるからこそ、 自由をあえて捨てる自由も存在するということだ。民衆の自由を 捨てカリスマ的な独裁的な指導者に盲目的に束縛されることを享受する 事もありえるのだ。  民主主義はかくも恐ろしいもので、簡単には根付かない。自由である 事はそれが故に自由を放棄する自由もある。ここに、独裁者を生む 国家を生む余地が常に存在する。だからこそ、民が国家を常に 操縦する必要がある。そういう危険性を認識しないでただただ民主化 民主化と叫んでいたらそれは反発も来るだろう。 テロは過去から蓄積された怨念によって起こる。 だのに、今は感情的怨念を解消するコミュニケーションを取ることを せずに、ただ短絡的に物事を見据えている。  ブッシュ大統領は、あなたは歴史に名を残す大統領になると思います か?という質問に対して「その頃は私は死んでいる」と答えた。 大統領ともあろうものが、50年、100年先の世界のことなど 関係ないという無知教養ぶりをさらす発言であった。  自由は自由を放棄する自由もある。人もそうなのかもしれない。 どこか社会の奴隷になってませんか?国より民の方が上にあるのが 民主主義です。民>社会>国といったところでしょうか? 社会でうまく生きれない方へ?あなたの方が立場は上のはずです。 社会を狡猾に利用してやりましょう。国を狡猾に利用してやりましょう。 ただ宇宙も含めた世界に対しては、すごさ!に感染しエネルギーを 沢山いただきましょう。さらに世界の一部に自分は入っている。 ある種自分のすごさ!にも気づきたいところです。
プロフィール

まさみ

Author:まさみ
ブログはこちら一本でやっていくことにします。

パソコンできる環境が作れず、こちらのブログのほうがスマホでも扱いやすいからです☆

よろしくお願いします。
⊂⌒っ*-ω-)っ

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。