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知恵

 悩みは誰でもあるものだが、恋は心の病と言われるようにその事 ばかりに頭が支配され、頭が硬直化する。硬直化した頭から新しい 発想・アイディアを生まれる余地はない。硬直してしまうと、ただただ 世間一般で言われている価値観に振り回されるばかり。社会内価値観に 振り回されるばかり。そうなってしまうのは自分の心ばかりを見つめて いるからだ。言葉では言い尽くせない不条理な世界に触れた時に新しい 知恵が生まれる。  自分の心に支配されていたのでは、知恵は生まれない。何か大きな 自然・偶発性に支配された計り知れない世界・または理屈では理解 できないが、こいつはすごい人!に感染されることによってふっと知恵が 生まれたりする。  知恵が生まれる瞬間って不思議なもので、自分の頭で考えて出てきた ように思われない。何故かどこかわからない世界のすごさ!に感染 されてきて出てきた印象を受ける。知恵とはほんの少しの知識で効率的な 結果をもたらしてくれる不思議でほとんどエネルギーのいらない世界。 自分でエネルギーを使っていないのであるから、ホント楽です。  原始時代の人間の方が知恵働きまくり。「キャスト・アウェイ」と いう映画を観たが、無人島で1人でいるうちに知識よりも世界の自然の 世界に接することで、知恵働きまくり。人なんて1つの小さな生物体に 過ぎぬのだから全部背負ってしまってはそりゃ生きるの辛い。 だからこそ、なんだか分からない世界に感染して、エネルギーなしで 知恵を拝借させていただくのだ。  この自分ではない世界が知恵を与えてくれる時心強い。ただただ肩の 力を抜く事で世の中で狡猾に生きれるようになる。元々知恵バンバンでて いる人もいますが、悩みがちな人は自分の心ばかりではなく、世界を 見て欲しいと思う。世界・自然・宇宙・植物・生き物・歴史等々。 結論的には自分の心の状態ばかり見ているとホント心の語源にあるように 心はコロコロ変わる。これに惑わされると知恵が出てくるどころではない。 しかもそれに悩み解決に向けるエネルギーで疲れきってしまう。 年末ということもあってとりあえずのまとめとして、自分なんて世界の 一部に過ぎないんですよ。さらに自分の心なんてその一部の一部。 ちっぽけ。全て身を預けるというと語弊があると思うのですが、 エネルギーを与えてくれる世界に目を向けるのはいいですよ。 まずは、空を久々にじっくり見てみるとそのヒントはあるかもしれない。 自分の場合タバコを吸って空を見上げると何かしら知恵が浮かんで すごく楽になる事が多い。  楽にー生きるとエネルギーをあまり使わないので、かえって別の方向に エネルギーが向けられてエネルギッシュになるという逆接も待っている。 仕事や恋愛や友達関係や趣味などいつのまにか、自然に集中できたり。 知恵は自分の頭がでてきてないような感覚の不思議さ。気持ちがいい。 知識にすがるのを勇気を持ってある程度捨てて知恵を用いると 円滑に人生生きれるようになる糸口が見えてくると思います。
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数学

 日本の小・中・高で教える数学はテクニックであって、それは 数学とはいえない。テクニックだけを教えているだけで根本的な 数学は仮説仮説の世界。非常に実用的な学問であるのだ。 必要十分条件というのがあるが、これが数学の極意だ。 「猫は哺乳類である」「哺乳類は猫である」 という二つの命題があるとする。 前者は十分条件で、後者の命題は成り立たない。 哺乳類全てが猫であるとは限らないからだ。  もっと分かりやすい例をあげよう。 「カラスは全て黒である。」 この命題は真か?十分条件か?必要条件か? だが、カラスの中にも白いカラスが見つかった瞬間にこの命題は 崩れはてる。こんな理由で「神秘体験など存在しない」という命題を 証明するのはことほどさように難しい事になる。よって数学では 証明できないものは正しいとせざるをえない。なんとも不思議な 世界だ。  社会問題は黒白つけれる問題ばかりではない。グレーゾーンの問題 ばかりでこう仮説して考えて、こういう背景でこうなってこうなって ああなってああなってっとシュミレーションすることが必要だ。 仮説を一応真実と考えて緻密なシュミレーションをすることが大事で そこには思考停止しないところに面白みがある。  物理学も経済学も社会学も数学の概念で画期的な発展を遂げた。 特に物理学や経済学の分野で。物事は全て仮説にすぎないのではないか? という驚くべき発見があるからこそだ。  そんな数学的な概念少なくとも義務教育では習わなかったですよね。 ただ掛け算・分数・方程式・微分積分を解くテクニックを学ぶだけで なんとも無駄な・・・そのような計算は今やコンピューターにやらせ 物理界の世界でも正確な数字は求められないが、近似値を求め、 月面着陸まで成功。近似値なのに・・月面着陸できるとは、仮説の 力も恐いですね。  自分もかなり勉強不足ですが、テクニックは置いておいて数学の 根本的に大事な必要十分条件の概念を理解するだけでも思考の幅が 広がるだろう。  悩み事解決コラムとしては数学といって嫌悪感を持つ必要はないと 言いたかったですね。何かに嫌悪感を持つのは人にそう教え込まれたから だと。この言葉誰かから盗んでるな(笑)数学の場合完全な無味乾燥な 義務数学教育がそうさせてますよね。 理系も恐れるに足らず・・向いてる人もいるかもしれないので、 進む道の幅ちょっと広げてみるのもいいかもしれない。。

蛇イチゴ

  蛇イチゴの画像  雨上がり決死隊の宮迫主演の『蛇イチゴ』は、宮迫扮する放蕩息子が 平穏な家族に帰ってきた事により、まさにでたらめはちゃめちゃになる 映画である。放蕩息子は詐欺で、香典を巻き上げるなどでたらめな 生活を送っていた。彼は親に勘当されて10年。たまたまおじいちゃん が死んだ葬式に姿を現した。堅物で肩書きを異常に気にする父親。 おじいちゃんの介護を必死に我慢しながらやってきた母親。 そして、教師であるただただ真面目な娘。 事はおじいちゃんの葬式から始まる。葬式で父親が莫大な借金を 抱えている事が発覚。父親はやくざらしき者から脅される。そこで、 勘当されていた放蕩息子が出てきて、自分は弁護士であると偽り、 その場をなんとかやり過ごす。放蕩息子はまともに社会では生きられない が、こういう機転が利きどうにかこうにか生きてきた。  莫大な借金を巡ってどう処理するか苦悩していた父親・母親・娘で あったが、それをうまーく処理する手段を知っていたのはやはり社会で はまともに生きれなかった放蕩息子。真面目な娘からは想像だにできない。 父親は勘当したにもかかわらず、放蕩息子にお前がいてよかったよー っと無邪気にはしゃいだりし、母親は娘は「あの子はいい子なんだけど いい子すぎてつまらない。息がつまる。あんたのような息子がいる 方が楽しい」ともらす。それを聞いた娘はショックであっただろう。 何故にまともに社会で生きている自分が・・・さらに借金を背負って ることが周りに知られ、婚約者には破棄を一方的にされた。  ここで、話をこの娘に焦点を移す。放蕩息子であるお兄ちゃんと 妹という観点でとらえてみる。妹は「いつもお兄ちゃんはでたらめ ばかりいっていて信用ならない」という。すると、お兄ちゃんは「確かに な。そういえば、お前はでたらめな事一度も言ったことないんちゃうか? 」っと妹は答えられなかった。  妹にとってお兄ちゃんは社会から逸脱した存在だ。社会的に まともではない。だが、どこかでコンプレックスなものを抱いている。 お兄ちゃんはそれでもどうにか生きている。そのすごさに気がついている。 社会システムによりすがらなくても生きているお兄ちゃんが・・  妹は小さい頃お兄ちゃんからもらった蛇イチゴが沢山ある宝の地図 をもらって、それを頼りに蛇イチゴを探しに行ったが、みつからず、 トラウマになるぐらいにショックだったと話した。お兄ちゃんは いや、あれはホントだったと。だったら今から探しに行くか?と 妹と深夜にその場所に行く。ただお兄ちゃんを信じられない妹は 途中で逃げ出し、お兄ちゃんを香典詐欺で警察に通報。そして・・ とぼとぼ家に着いてみると、机の上に大量に蛇イチゴが・・ 蛇イチゴの話は本当だったのだ。言い知れぬ感動を呼びますね。  ただただ社会システムによりかかって生きるのなら本当につまらなく 正直息苦しい。そこで脱社会を少々することも必要。簡単に言えば息抜き ですね。ここで、間違えちゃいけないのは、脱社会と反社会とは違う ということ。社会で生きられないからといって反社会的な行為をとって いたのでは、それも社会システムにこだわっているにすぎない。 だからこそ、蛇イチゴを象徴とする脱社会的なものが必要なのだ。  お金を出すのが当たり前になっている資本主義社会で蛇イチゴのような ただで食べれるものを手に入れる時、どこか心が温かくなりませんか? 静かになる人もいるかもしれない。 そういう自分は保育園時代蛇イチゴが大好きでした・・

仕事ができない理由

 自分はどうも仕事ができない。ヘマしてばかりだ。と感じる 事も多いだろう。それは端的に言えば、仕事に身が入っていないからだ。 もっと簡単に言えばその仕事するやる気がないから(笑  つまり仕事中にも仕事以外の事に身が入っているからだ。例えば 職場の人の目、上司の目、人からどう見られてるかばかりに身が 入っていたり、あげくのあてには、俺って何の為に生きているのか? っということに身が入っていたりする。よく失恋中あるいは恋愛中 その事ばかりに身が入ってしまって仕事が手付かずになるというが、 それと同じようなことだ。  能力がないから仕事ができないのではなく、単にはなからその仕事 自体に対しては興味がない。悩みに興味があるだけ。それじゃあ、ヘマ ばっかしちゃうのも当たり前ですよね。  そこで、仕事には向き不向きがあるといいますよね。これは本当で 今まで自分には向いてないと思っていたものが向いてたりすることもある。 だからこれはやってみないと分からない。やってみて仕事だけに注意を 向ける事ができてもどうも合わないが、反面少々人の目が気になっても それをしのぐぐらいその仕事に身が入る場合もあり、その場合それは 向いていると言える。  だから、あまり自分はこういう職業につくのだ!!っと力むとあまり よくない。それが自分に向いていないのなら、ずっと悩み続ける。 向いていないと仕事に興味を覚えず、どうせ、人の目やら自分の人生とは? という悩みに覆われ、苦しいだけになってしまう。 なりたい職業と向いている職業は違うわけで、なりたい職業は是非 諦めて頂いて向いている職業をお勧めする。向いている職業は 好きではない職業かもしれない。好きでなくても向いているなら そちらの方が楽だ。 そして、なりたかった職業の方は趣味の次元で実現すればいい。 弁護士になりたかったのであれば、せめて、インターネットの世界で 法律に関する情報を発信して、趣味の次元で実現すればそこそこ 満足できる。

多チャンネル化時代

 豊かになりたいという共通の目標を持ち、高度経済成長を遂げた 時代、主に重化学産業に重点に置いていた。だが、豊かになるという 目標を遂げた現在はサービス産業・主にIT産業、情報化産業がメイン となる。ある思想家は言っていた。人々が物の需要ばかりを求める のではなく、情報というものを享受するのならば、物の枯渇化が 防げ、石油争いなど無駄な事なんて起こらないのではないか?と。  人は物を求めるのではなく、情報を欲する。情報といったら 多種多様で、ニュースから映画・音楽・漫画・美術等々全て含まれる と考えると現代の高度成熟社会では選択肢が選べないほどの 情報にアクセスする時代となっている。  1970年代頃までだろうか?誰もが同じ漫画を見て、誰もが 同じテレビを見ていた時代は、個室化・コンビニ化によって終止符を 告げられたのでるが、その後は個々がどんな漫画を見て、どんな雑誌を 読み、どんなテレビを見て、どんな音楽を聴き、さらには今では インターネットがあり、どこにアクセスするかは個々それぞれで 共通する話題は難しい時代となっている。  まさに情報に対して多チャンネル時代。衛星放送だが、スカイパーフェ クTVとかもあり、今や過多チャンネル時代。このようになると どのような不都合が生じるか?これだけ自由に情報にアクセスできる ようになったかと思いきや、選択肢がありすぎて、どれを選んでいい のか分からないという不自由さを感じるという逆説が生じる。 これだけ世界情勢のことまで特にインターネットを通して 簡単に手に入ってしまうのならば、1人で処理できる状況ではない。 まさに共通前提を失い無秩序状態(アノミー)に陥る。  すると、人は自分にとって心地の良い情報にしかアクセスしなくなる。 アメリカを例にとるとブッシュ支持者はブッシュ支持のFOXテレビしか 見ない。FOXテレビはもちろん共和党支持なので、ブッシュに不利な 情報は流さない。つまり、9.11テロがイラクとは何とも関係ない と未だに報道せず、さらに未だに大量破壊兵器はなかったと報道して いないため、情報過多に疲れ、自分に心地よい情報だけにアクセス する共和党支持者達は未だに9.11はイラクが起こし、大量破壊 兵器は未だにあると普通に信じている。そうでなければ、普通に 考えてブッシュが勝利するなんて難しいだろう。  自分にとって心地よい情報だけにアクセスしたいというのは 分かる。例えば俺はメンタル系という自分にとって同じような 悩みを持っていた人のサイトにアクセスしがちであった。 それが心地よく、一般サイトにいくと理解されなく、こてっぱんに やられるからそのような情報を得たくなかったのだ。 だが、今やただただ自分に心地よい情報だけを見ると正しい情報が 得られなくなることを知り、時に全く違う情報をみてみたりすること にした。さもなくば、政治問題でも社会問題でもあまりにも偏った 考えになるからだ。ただこれだけ多チャンネルかするとだるいのは 分かりますよね。様々な情報に接することなど。  だからこそ、メディア・リテラシー教育というのが大事とされる。 ただそんな難しい事よりも、自分に媚びを売るような情報ばかりに アクセスして安心し、メディア戦略にだまされぬようになるとよい。 そこには自己決定能力も大事で、何より、世間で流れるワイドショー 的な情報はほんの事実の1つに過ぎずそんなものに流されぬように したいものですね。自分の目で見て体験した情報こそ、最も自分に とって肥やしになりますが・・

世界

 よく言われて言い古されている事であるが、バブル崩壊後、年功序列制 も次第になくなり、実力世界の世の中になった。バブルが崩壊し、 不景気、不景気と騒がれていた頃、自分は高校ぐらいであった。 社会内で生きようとどうにかしがみついていた自分は、当時崩壊しつつ あった、イイ学校に入ればイイ会社に入れ、イイ人生を送れるという たわけた幻想に少しだけ信じてみようということで必死に大学受験の 勉強をした。  元々対人緊張が強く、社会に対して生きづらさを感じていた中で、 外面だけでも整えるために、今でも振り返ればすごいほどに受験勉強 サイボーグと化した。世間で認知されている生き方さえ外面的に 整えれば生きづらさは減るのではないか?と必死だった。 ただ、社会は大きく変動し、こういう生き方は幸福だという共有できる 価値観はなくなり、学校の勉強ができる奴ほど社会では生きにくくなる という逆説には敏感に察知していたため、自分でも無駄と思い、 多大な不安を抱えていた。  余談になるが、日本の教育制度はおかしいと思いますよね? 誰だって。自分でものを考える能力、試行錯誤する能力を伸ばす事は 皆無で、ただただ与えられた知識を覚えるだけの無味乾燥なもの。 2004年現在、ようやくバラエティに富んだ学校も出てきて救い甲斐 があるが、課題は多い。与えられた知識を覚えただけで、それに何の 情感もわかないのならそのような知識すぐに忘れ去られる。 自分でものを考えられない人間が大量流出していくことになる。 このような人間が年功序列制が廃止された社会で生きていくことは アノミー(無秩序)状態に陥るのは至極当然の事である。  このような思考停止的な日本人を数多く生み出す教育制度は 当時日本を占領していたGHQの謀略というが、真偽のほどは 確かでないにしても、そう感じてきもしなくない。 占領する側にとって、言われたとおりに、はいはい、答える思考停止 的な人間より、自分でものを考え時には反発するものが大量に出てくる 事ほど脅威なものはないからだ。これには当時共産主義に対抗する アメリカの政策の一部と見ることもできる。 それとおまけに、日本のしゃべれなくさせる英語教育も日本が国際社会に 出て行かないようにさせるGHQのしわざというが、この真偽のほどは いかに?  自分の問題として考えると確かに自分でものを考える能力がひどく そがれてしまった印象がある。ただ会社を辞めた事を特に転機として 脱社会的な生き方をできつつある。不思議と自分でものを考える能力が ようやく開花されつつある。そこには脱社会化して、社会を眺める という視点があり、余裕が生まれるからだ。社会優位と考えるより もっと大きな世界を感じれるようになったからだ。 例えば、この前近所にある入山に深夜に行ってきた。 深夜ということもあって異様な雰囲気だ。 枯葉がなびいている。真っ暗な中で。ある種の戦慄を覚えると ともに世界のすごさ!に感染できた。 そのすごさ!に感染した後、社会に戻ってくると以前とはまた違った 感覚で社会をみれる。社会に脅威を覚えている人は世界のすごさ!には 到底叶わない事を肌で感じる事が大事だと思う。 社会は人が作った理解可能な範囲しか扱っていない小さな領域。 世界は理解不可能な部分も多い尽くした果てしない世界。

息子のまなざし

 2003年に公開された『息子のまなざし』という映画には痛く 感動した。ベタベタな感動ものには子供の頃に見飽きたため、 比較的ベタに感動を誘うものは好まないのであるが、監督も 感動を誘う為だけにこの映画を創ったのではないだろう。  この映画にはなんともいえない・・余韻が残り続けるのだ。 あらすじは、5年前に自分の息子を殺された父親の元に少年院から 息子を殺した張本人が出所してきた。5年悔い改めた?青年は 仕事をする為、学校で大工の勉強を始める。だが、その青年を 教える先生はその青年に殺された子供の父親本人であった。 父親はその青年が息子を殺した事は履歴書を見て知っていたが、 青年はそうとも知らず、先生の元で、大工の仕事を習う。 先生もその青年に対する恨み、憎しみはもちろんあるが、 それでも毎日毎日仕事を当たり前のように教えていく。  いくら息子を殺した青年といえども、毎日毎日生活し、それが 自明性となると、事実性の積み重ねにより、復讐の為、殺すという ところまではいかなくなる。映画を通して復讐などするチャンスは あったが、それをしない先生(父親)。ある日、問い詰められた 青年は『ラジオを盗んで逃げようとした時、小さい子供が手を 離さないから、殺すつもりはなかったが、逃げる為に子供の首を 握って逃げ出した』と。だが、結果その子供は死んだ・・  毎日毎日一緒に暮らす中で、青年は先生(父親)に心を開き始め る。そんな中、ラストでついに、先生(父親)は青年に『お前が 殺したのは、私の息子だ!』と告げる。驚愕した青年はとっさに 逃げ出す。先生は『話がしたいだけなんだ』と叫ぶ。 だが、青年は殺されると思って抵抗。追いかける先生(父親)抵抗する 青年。ついにつかまえた先生だが、殺すどころか、暫くして その場を立って元の通り仕事を続ける。・・・・・・ なんともいえない時間が経った後青年は現れ、無言で先生(父親) の仕事を手伝い出す。  このありそうもなさが深い感動を覚える。ただこれにはただただ ノイジーな存在ではなく、共に共存しているというだけで殺せなくなる という深い洞察がある。例えお互いに憎しみがあってもだ。 だから、単に憎しみがある相手にも愛の手を差し伸べましょうなどという 甘いヒューマニズムを説いたものではない。 愛する人が殺された、復讐の為に同害報復といって殺し返すのは 当たり前の事とされていたように自分もそうしないとも限らない。 ただ近代社会においては、異質なもの同士の共存が課題だ。 最早価値観がばらばらになって個人個人の価値観も前提できるものが なくなった近代社会では、異質な価値観もの同士が共存できる事が 大切。    そこにはただただ共に世界を生きているという自明性のみが それに示唆を与える。電車に乗れるのも電車に乗ってる人が特に 何もしないという事実性の積み重ねによって、異質なものが沢山 乗っているということを受け入れてるからこそ普通に乗れる。 静かな感動を呼ぶこの映画は是非お勧めしたい作品だ。
プロフィール

Author:まさみ
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