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社会=世界から社会≠世界へ

 社会とはコミュニケーション可能な総体の事で世界とはそれを含む 全てのものである。原初的世界においては社会=世界であった。 しかし、社会システムが複雑化するにつれ、社会=世界ではなく、 社会の外に世界があると考えられるようになる。社会=世界であった 頃はあらゆるものとコミュニケーション可能であった。木や海や星など ともコミュニケーン可能だと考えられた。だが、社会の外に世界があると 考えられるようになると、コミュニケーションは社会内において、 行われるのみである。世界に対する認識はコミュニケーション可能で はない、すなわち、名状しがたい、言葉にはできない世界として 現前として存在するようになる。  普段人は社会内で生きているので、世界のことには思いがいかない。 だが、世界のイイ意味でも悪いイミでもスゴサ!に触れた時に、 その世界を社会生活を送る中でも垣間見る事ができる。 そのスゴサ!とは偶発性による世界のすごさだ。不慮の事故であったり、 お祭り体験であったり、思いもよらない出会い、意味もなく舞い上がる ビニール袋等々。これらは実存的に体験せねば理解できない言葉では 還元できない種類のものである。  社会内だけで生きていると辛いと感じる時代である、それだからこそ、 偶発性を無害化させてくる宗教などが存在するのであるが、何も宗教で なくてもいい。また、宗教者でも新たに世界と接触可能である。 何故自分だけこんな目に遭わなければならないのか?とう偶発性に対する 答えとしてスゴイ!世界に触れてみるとなんともいえない充実さを 得られる。  コミュニケーションできないところが世界であり、そこでは 言葉は必要ないというか、言葉で現した瞬間にそれは世界ではなく 社会について述べているに過ぎない。 言葉に出来ない世界への感染のすごさ!を大事にして頂きたい。  今回は抽象的でしたので、何か良い映画を題材にして、そのうち 当てはめていきたいと思います。
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非流動化

 どこに行っても同じようなファーストフード店・コンビニ店・ 薬局・スーパー・デパート。。全国どこに行っても何故か同じ 風景に見えてしまうのはなんともいいようのない耐えられなさが ある。自分の近くの多摩ニュータウンを見てみる。ただただ 歩いていても同じ風景が続くのみ。どこかなんでこんな場所に?こんな ものがという、非日常体験というか不思議で奇妙な体験を刺激させる 場所がなく、都市計画によってただただつまらない風景。  例えば、うちから歩いて徒歩2分のところに奇妙な竹に囲まれた 幽霊屋敷と呼ばれる家があった。そこへの道は今は舗装されて しまったが、トンネルのようなものを抜けると行ける。映画『となりの トトロ』でトトロに最初に出会ったあのトンネルのような感覚だ。 整備されていない合理的でないあの幽霊屋敷を思い出すと、なんとも いえない満たされた気分になる。実際にそれがあったのか定かでは ないぐらいだ。子供が遊ぶ場所というのは大人達が創った整備された 監視の届く場所ではなく、そのような奇妙な場所に魅かれるものだ。  大人達の入って来れない、つまり合理化されていない世界だ。 コンビニ化・ファーストフード化されていない世界といってもいい。 さらにはディズニーランドのような創られた合理的な世界でないと いってもいい。人は耐えられません。少なくとも自分は何もかもが 整備されて全てが合理的でどこに行っても同じような場所、システム ばかりであったなら。  地元商店街的なものを見て安心する人は多いはずだ。さらに私的な 事であるが、人工化されつくされていない自然に触れるのはなんとも 言えない満たされた気になる。例えばこの前倉岳山というところで 遭難しかけた時、まさに合理化されていない世界に行けた気がした。  言いたいことは現実逃避ではなく、ある程度そこそこ豊かな世界に なれば、それ以上を求めると虚しくなるだけで、そこには極端な 耐えられなさがある。そこそこ食べていけるならば、さらなる高度成長 ではなく、イメージの中での創作で十分。映画・漫画・音楽・絵画等々。 さらに様々なそれぞれのそれぞれにとっての独特の場所・体験・人。 スローライフ運動賛成。ゆっくりでいいでしょう。技術的進歩は。 進歩するほど南側諸国に環境負荷をかけるという皮肉もあるのだから。 グローバリズムというのなら南北問題も考えなきゃ。 スロースローにそれでいい。ゆっくりでいいんです。

仮定

 数学でいう点の定義は大きさがないがそこにあるものとして定義され る。線もそうだ幅のない線があると定義する。実在上はそのような 点や線は存在しないのは明らかであるが、そう仮定して思考のモデルを 構築していく。  よく言うように物理学で紙ヒコーキを飛ばしてそれが どこに落ちるか予測するのは物理学では永遠に不可能だと言う。 例えば、リンゴは何故落ちるか?と疑問を発し、実験を繰り返し、 万有引力を発見したニュートンであったが、それは実験の結果そう いう結論を出したに過ぎず、何億回リンゴが落下するのを実験したと しても次に落とした時は落ちないかもしれない。万有引力がくつがえる かもしれない。これは多少極端な言い方かもしれないが、実験からなる 物理学などは特にそうで、仮定の仮定の話でこれまでそうなっていたから こういう法則があるに違いないと仮定するに過ぎない。  つまり、仮定せざるを得ないほどこの世界は複雑であるということで ある。日本の学校で教える数学の方程式は解のある問題ばかりである。 実は解けない事が証明されている方程式もある。解ける問題ばかり 教える学校教育では解けない事の方が多いことの方を教えた方が 有意義であると思われる。天動説から地動説へというコペルニクス的な 大変革も当然今後あるだろう。法律学や政治学や経済学や宗教学や 心理学等々全ては仮定から始まる。  学問の世界でさえそうなのであるから自分には価値がないのではないか? と思うことは全く根拠がない。自分がそう仮定して価値がないことに できるが、違う証明方法もあるだろう。仮定仮定ばかりだとアイデン ティティの崩壊を招く危惧感はあるかもしれないが、そうではない。 自分がどう生きるかは自分で自由に決めてもいいのだ。その試行錯誤の 中で実存は自信を増していくだろう。

信じるって。

 ある人から聞いた話であるが、ロシア人の約50%は神によって 人間は創造されたという創造説を信じており、約30%は進化論を 信じており、残り約20%はなんと、地球人は宇宙人で、移り住んで 来たと信じている。ざっとした情報なので、信用性はともかく このようなデータは非常に面白い示唆を与えてくれる。  あっ余談ですが、自分は昆虫は地球上の生物の中で何か特殊。 なんか変。だから昆虫は遠い昔地球を征服に来た生物であったが、 あまりにも小さかったので、適応していきていくことにしたと想像 したりする。(笑)  再選したブッシュ大統領の国のアメリカも非常に奇異な国だ。 1642年に清教徒革命を起こしたピューリタンが移住して 創った影響もあるのか、近代社会になった今でもアメリカでは キリスト教の影響が過度に大きい。反面欧州では、教会に行く人など 年々減るばかり。閑古鳥が鳴いております。アメリカ人の60〜70% 近くが普通に神による創造説を信じているところを見ると非常に奇異 ですよね。宗教離れが進んでいるとは思いきや・・ アメリカで言う信仰の自由とはどうやらキリスト教の諸宗派、 カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、ロシア正教会で あろうと、福音派であろうと、バプテスト派であろうと、キリスト教の ニカイア信条を守るならば、どんな宗派を信じようと自由だという 信仰が強いようだ。反面、イスラム教徒等に対して宗教的寛容が 非常に低いのが皮肉な話だ。信仰の自由が生まれた国であるのに・・  その点、日本では信仰の自由といったら、仏教を信じようと神道を 信じようとキリスト教を信じようとイスラム今日を信じようと創価学会 を信じようと勝手。さらに、信仰などしないで無宗教を選択するのは 当たり前の信仰しない自由だ。っと一般了解できているのではないか?  話はそう簡単ではなく、ただアメリカでは教会に属してるだけで 様々な利権が得られるから所属しているだけで、信仰など何もない 場合も数多く見受けられる場合もあるようだ。  信じるって不思議ですよね。人間自分なりに何かを信じている。 自分を信じる事もできるし、自然を信じる事もできるし、人を信じる 事もできたりする。そもそも今これを見ている人は目の前にパソコン があると思うが、それは今目の前にパソコンがある事を信じている からこそパソコンと認識できる。催眠術でもかけられて、これが ただの岩でしか見えないと信じる事ができなくなれば、この文章は 読めないであろう。信じて初めて認識が生じる。意識的に信じている よりも多くは無意識に信じている。一番信じやすいのは自分という 存在。感覚。  さて、最初に挙げたロシアの例。別にどれが真実かなんかよりも 面白い。人っていろんな信じ方をして、違う世界観で生きている。 信じるって難しいことではなく、日々やっていること。 だから強制的に信じさせようとするものどもには気をつけあれ。

アカルイミライ

アカルイミライ 特別版の画像  私的な事でありますが、今のところ自分の中でベスト1映画は 黒沢清監督の『アカルイミライ』となります。その他にも『MOMO』 などなど数え切れないほど沢山良い映画はありますが、現時点では 自分の中でベスト。  冴えないフリーターで働く主人公の雄二と守。二人は友達であり、 関係性から言えば守が悟っている立場で、守の言う事に従いがちな 少々内向的なのが主人公の雄二であった。守は赤クラゲを飼っていた。 赤クラゲはこの映画では象徴的に描かれている。赤クラゲを見ていると 不思議な感覚にとらわれる。ただただ揺れている。社会とは全く関係 のない世界で・・そんな赤クラゲを守は雄二にプレゼントする。 赤クラゲは毒をもっており、触ると死んでしまう恐れもある。 毒を持っていながら、ゆらゆらゆれ、赤く透き通っていて綺麗。 なんとも不思議な存在である赤クラゲ。 そんな中で事件は起き、守は自殺してしまうことになる。 あるメッセージを残して。  その後ふとしたきっかけで自殺した守の父の真一郎と奇妙な関係になる。 バイト先のなくなった雄二は真一郎が経営する小さい小さいリサイクル 工場で働かせてもらう事になる。それはそれはぼろいぼろい工場で あった。雄二はフリーターである自分、今後の自分にアカルイミライを 抱けずいらいらして、真一郎に『これが、お前の現実だ!この現実を 見ろよ!』と悟らされたりする。そして喧嘩。そんな折、飼っていた 赤クラゲが逃げ出してしまった。下水道に赤クラゲをあやまって 逃がしてしまった。  この映画の中で象徴的な赤クラゲ。この社会とは関係ない脱社会的な 存在だ。いわゆる社会にアカルイミライを抱くのではなく、脱社会的な 世界にアカルイミライを抱かせてくれる象徴的な存在。 貧乏ながらも満足している真一郎との交流の中で徐々に青年と中年親父の 親友のような今ではありえない関係が形づくられていく。    そして、ラスト。逃げ出した赤クラゲは大量繁殖して、川にあふれん ばかりにいた。それをみた真一郎は大喜び。中年というのにはしゃぎ まくり。なんとその姿にアカルイミライを見出さずにおくべきか。 しかし、はしゃぎすぎで、毒を持っている赤クラゲを触ってしまい、 毒を受けて倒れてしまう。それを見た雄二はすかさず、命がけで助け に行く。赤クラゲが大量にいる中でのその光景は不思議で感動を 誘った。脱社会の中でアカルイミライを見出した雄二。 自分と重ね合わせ、大変共感し、心に残る名作となったのである。

ノイズ耐性

 一昔前でしょうか、核家族化が進む前にはおじいちゃん、おばあ ちゃん、孫まで共に住み大家族で暮らしていた。家族だけではなく、 近隣住民との交流も頻繁で、口うるさい奴らが多数いた。 どこいっても顔が知られていて、噂立てられたり、家には 沢山人がいて雑魚寝して、1人でいる時間なんてゆっくり持てなかった。 その代わり、人が側にいたからといってそれをノイズだとはあまり 感じなかった。それが当たり前だったから。当たり前だから特に 人が同じ家にいたとしてもノイズは感じにくかった。 というよりノイズ耐性というものがついていたのであろう。  しかし、今では核家族化して、父・母・子供しかいなくても それぞれが、個室化(コンビニ化・携帯化・1つの部屋に1つのテレビ) などにより、特にノイジーな存在である家族と関わらなくても 1人でいられる。そのため、少しでもノイジーな存在である家族と 接するだけでも耐えられなくなる。ましてや近隣住民、学校・会社の 人たちなら尚更である。ノイズ耐性がないのであるから。  さらにインターネットでは人と接する事ができるのであるが、 どうしても自分にとって心地よいサイトにアクセスする。 自分と同じような自分と同じ意見のようなサイトにアクセスし その人々と接触するので、その人々をあまりノイズとは感じない。 ノイズは自分とは反対意見を持っているもののことであるからだ。 ノイズ耐性つけるにはわざわざインターネットで自分と反対意見 を言っているサイトに行くのが手であるが、そこまでする余力は 大変ですよね。ただ心地よさだけだとノイズ耐性は高められない。 居心地の悪さに慣れるのは社会性を身につける上でも大変重要な ことだ。社会性をみにつけるといっても大袈裟なものではない。 その人に合ったほどほどに。  たまには思い切ってあまり自分とは合わない人の意見を聞いて みるのもいいかもしれません。そしてどうせ腹が立つだろうから むかついて反論してやってください。多少の喧嘩まがいがノイズ 耐性を高めると思われます。

自己尊厳

 自己の尊厳の獲得の仕方は大きく分けて2通りある。1つは大いなる もの神や国家やなど崇高な大きなものに依拠することによって自己の尊厳を 高める方法。もう1つは自己が試行錯誤を繰り返しながら、自分に信頼を 寄せて尊厳を獲得していく方法。  前者は非常に日本的な尊厳の獲得方法である。戦前は国家に対して、 戦後は学校共同体、会社共同体に承認されることによって自己の尊厳を 獲得していくという方法。これは未だに残存しています。終身雇用制は 崩壊し、会社共同体に承認してもらうことで自己の尊厳を獲得する 方法は失墜しつつあるが、その代わり様々な依拠するものが出ている。 携帯ツール、インターネット、新興宗教、社会運動団体・・エトセトラ 何かの世界に属してその小さな世界で認めてもらうことによって 自己尊厳を獲得する。これは良い、悪いとは言えないのであるが、 近代社会では脆弱な尊厳獲得方法とはいえない。  後者のたとえ学校に属してなくても会社に属してなくても、失業者 になっても、インターネットがなくとも宗教がなくとも、友達が いなくとも、ただただ自分の経験の中で失敗もありつつ試行錯誤の 結果、自分は自分だ!という自己尊厳を獲得するのが高度成熟 社会になった今となっては非常に成熟しているといえる。 自分自身も後者の尊厳獲得方法に魅力を感じる。  会社人間である人がたとえ、失業しても自分は自分。ゆるぎない 尊厳が獲得できる事が特にこの時代は重要である。何故なら流動的な 社会で、一定の地位に安住できる社会ではないからだ。どこの世界に いっても自分は自分であるという自己信頼があれば、成熟社会に 適応できる人間となるであろう。  偏差値教育の中で偏差値に頼り、自分自身で試行錯誤した経験のない 者は学校外に出た途端に、ゴミ同然となることを避けるためにも 試行錯誤を通じた自己信頼を得れる、教育システムを今後樹立していく 必要があると考える。
プロフィール

Author:まさみ
ブログはこちら一本でやっていくことにします。

パソコンできる環境が作れず、こちらのブログのほうがスマホでも扱いやすいからです☆

よろしくお願いします。
⊂⌒っ*-ω-)っ

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