スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

天皇

 天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけられた際、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と述べた。 この天皇陛下が国旗・国家についてご意見を述べられることは異例 中の異例で、これは実は驚くべき出来事である。  米長邦雄さんは天皇陛下に喜んでいただこうと思って、国旗・国歌 斉唱を強制する事が私の仕事ですと述べたところ、陛下に、強制 でないことが望ましいといわれてしまった。新しい歴史教科書をつくる会 に関係する米長氏のこの出来事はある種爆笑に値する。 新しい歴史教科書をつくる会はちまたで有名な漫画家、『戦争論』も 書いた小林よしのりも関係していたが、小林よしのり氏は最近、つくる会 に疑問を抱いてくれたようで、さらには犬猿の中であった宮台真司さんとも 親しくなられたようで、嬉しい限りなんですが、つまり、天皇陛下ご自身 愛国心は強制するものではなく、自発的に行われなければ、愛国心とは いえないと理解されているのに、つくる会の人は未だに理解していない ということである。  まー普通に考えても強制された愛が愛と呼べないのは言うまでもない。 自発的な愛こそ愛であるといえよう。  ただ日本は無宗教が多いと言われているが、天皇教ともいっていいほど 天皇は聖なる存在とされている。人間宣言した今でさえ、天皇が一度 、国旗・国歌斉唱を強制ではないと言われた途端、誰もが陛下がそう 言われたので、私は国歌・国旗斉唱は拒否するとなんの論理的な 根拠もなくいえてしまう。未だに天皇の影響力は大変なものがあるので ある。憲法とは関係なく、天皇の意見が政治に影響力を発する事は 大変恐ろしい。天皇が恐ろしいというよりも、政府・政治家に政治利用 されることが恐いのである。これは歴史をひもとけば、明治維新において 天皇を現人神として祭りあげ、天皇の下において、日本国民は平等で あるという民主主義的な価値観を植えつける事によって、急加速的な 民主主義国家となった歴史のように。さらにいきつく先は軍部の天皇 利用による暴走戦争に至るのは歴史をみれば分かる。  天皇の歴史は古い。もちろん、現代ではただの人間であることは 明らかであるが、それを未だに聖なる存在であると思う文化的リソース がすごい。天皇は日本の一つの文化として残すのは自分は大事だと思うが 天皇を政治利用するものが現れないよう、チェックしていくことが 必要である。どうやら、これは根が深い問題であるようだ。
スポンサーサイト

普通の人

 自分は普通じゃない・・普通の人になりたいと悩む場合、悩み方が 視野が狭すぎると言わざるをえない。何故なら、普通の人というのは 存在しないからだ。例えば、一般的にいうマイノリティの枠に入った 場合、自分の場合は対人恐怖であるが、分かりやすく言えば性同一障害 者の人たち・・・今でこそ、偏見はなくなりつつあり治療も可能となった が、ハンセン病の人々。ハンセン病の人々などは古い書物の中でも 人間扱いさえ最初からされていない。だから煮てくおうが焼いてくおうが 勝手な扱い。さらにアメリカ人のインディアン、殲滅(ジェノサイド) を代表的な歴史として、非文明人は人間ではないという見方が普通だと まかりとおっている時代さえあった。  歴史やさらにマイノリティーの人々をつぶさに観察すると分かるのだが 普通の人は存在しない。時代時代、国々、文化によって普通の人という 概念は違う。ただみんなからお前は普通じゃないと言われ、迫害される という結果をみて、自分は普通ではないのではないか?と思うだけである。 たまたま、その時代の普通の人概念にとらわれているのは馬鹿らしい。 さらにもっと深くみていくとその時代時代の普通の人という人のカテゴリー は誰かと探してみてもそれにふさわしい人など存在しない。 普通の人という大衆が存在するわけではない。 1人1人、物事の認識の仕方、感じ方は違う。自分自身がどんな思いで、 今この文章を書いているかは、本質的には他人の人にはわからない。  自分は普通の人と違った特別な存在だと優越感に浸る事もできるが、 残念ながら、1人1人が100%特別な存在であり、1人1人が100% 普通な存在であるという矛盾にも似た結論に至る。 これは、この世界は偶発性に満ちており、入れ替え可能な存在に満ちて いるという感受性があれば多少は理解できる。何故、自分が人間で あの家の犬に生まれなかったのか、何故自分があの人ではなく、この 自分自身なのか?それはたまたまであって、その存在と入れ替え可能 な存在である。たまたま今ここに自分がいる。そこに驚くべき不思議さ があり、自分を誇れると同時に誇れない。  矛盾に満ちた世界の中で普通など求めてもしょうがない。 人それぞれが特別な存在であり、最初からそれが普通な人なので あるから。  

サブカルチャーの勧め

 革命・・国家が国民の自由を公共の福祉に反して侵害するならば、 国民は革命を起こし、国家を転覆させてもよいという抵抗権があるという デモクラシーの始祖、アメリカ合衆国憲法の思想の元の元になっている ジョン・ロックは言う。国家は道具に過ぎないので、リヴァイサンの ごとく暴走するならば、それを武力によってうってよし!とする思想。  確かにこういう思想は熱いですよね。学生紛争の時代も日本には ありましたよね。共産主義が隆盛だった頃。右翼・左翼も過激だった。 ただ思考停止的な革命家は、恐い。よく考えず、勝手に共産主義が 真理だと思い込み、それに邁進するため、反共産主義者に対し、暴挙を 平易にしてしまうことがある。何より、反共産主義の価値観は一切 受け入れられない。〜主義とかかげられるのであれば、それは宗教と 同じような色彩を帯びてくる。〜主義と宗教の違いを挙げるとすれば、 〜主義は社会変革によって人類の救いを求め、宗教は社会外の世界に 救いを求める。これはいささか単純モデル化した言い方であるが。  自分はリベラリズムに興味はあるが、社会運動家とか革命家とか 宗教家になるよりも、もっと健全な世界で満足したい。っというのは 彼ら社会運動家らは結局人生に満足できず、充実感を得たいがために やっている。ならば、同じ充実感を得たいならば健全な方がいいでしょう。 唯一の真理などなく、全てが分からなく、偶発的で、不条理な 世界なのだからそれを十分に堪能するにはサブカルチャーの世界に 耽溺するのが格好の良い方法である。映画・漫画・音楽等々。 それらの世界には不条理が沢山描かれ充実感を得られると同時に 自分の感性も磨きがかかる。さらにスポーツやアウトドア等の 趣味はすぐに充実感を得られるのでよいことである。 ダンスはもっと気持ちがいいかもしれない。ただそれは一瞬の 発散なので、サブカルチャーにおいて思想を生きることができる。 何も過激に右翼や宗教など掲げなくても十分強度(充実感)を 得られる。 さらに、サブカルチャーをやっていると思考停止に陥らない。 冷静に時代分析、自分の分析をできる。 何かの社会運動に属すると思考停止に陥るのでサブカルチャーの 世界でありとあらゆる解釈ができる中で頭をフル回転させるほうが 思考停止的な暴走的な行動はとらなくなると思います。

棒読み国会議員

 未だ社会も国家もなかった頃の自然状態において、人々は社会や国家を 必要とすることなく生きていた。自分で採集したものは自分のものに するという所有権もあった・・とロックは仮定した。    しかし、人々は全て理性的で勤勉な人とは限らない。国家などなくても 人は生きていけるのだが、紛争が起きた際は紛争解決処理として国家を システムとしてつくる。個人が上で国家が下位のものであるという ことである。国家は個人個人が契約で国家をつくろうと仮につくった だけのものにすぎない。国家という生き物があるのではなく、それは フィクションで、ただシステムとしてそこにあるだけである。 そのようなシステムである国家にシンパシーを感じ、崇高な精神共同体 意識を感じるのは近代主義者は考えない。国家などあくまでシステムに 過ぎず、崇拝する対象ではないということだ。  日本人はすぐにお上に頼る習慣がある。国家だから逆らってはいけない、 困った時は国家に助けてもらうのだから、国家ありがたやー、ありがたやー となる。この考え方は民主主義を理解していないことになる。 国家というシステムをつくってるのは個々人で崇拝するのならば、 個々人自分自身ではないか?    政府、官僚、役人は市民が操縦するべき道具であるとの見方が 民主主義の正しい考え方に近い。  さらに、市民の代表である国会議員のなんたるざま。 昭和30年に国会法の自由討議の条項が削除されてしまった。 それ以来役人がつくった質問をし、答える、棒読みだけの 国会が開かれるようになった。自由な討論が民主主義の真髄である はずなのに。これを分かっていたのは田中角栄1人だけであったとか。 朝まで生テレビという番組がある。賛否両論あろうが、あの番組は 自分は好きだ。答えの出ない問題を延々と自由に議論する。 それが大事なのだ。自由討議することによって思考が深まっていく。 人々の心を動かすこともある。国会法の自由討議の条項を 復活させて欲しい。  さて、悩み事解決コラムとしてコメント、答えのない問題を 決め付けてしまうとただただ棒読みの毎日になる。毎日試行錯誤 して生きていけば思考は二重三重に深まる。自分はだめな人間だと 決め付けずに、本当にだめか?何と比べて?だめの根拠は?いや だめではないのではないか?悩んでること自体おかしいのではないか? 結局答えはないけれど、そこに心の余裕が生まれる。どう解釈しても いいからだ。頭が柔らかくなることは悩み解決にもってこいである。

貧困。。

 南北問題。日本によるラオスに対するODA。ラオスのダム建設。 ダム開発し、その電力をタイに輸出し、経済的に豊かになるという プログラム。経済的に苦しいからといって、それを貧困と思考停止的に 決め付けると却って貧困をますます増殖させるという逆説に陥る。  盲目的にODA援助を続けて南側諸国の貧困を解消しようとしても 無駄である。何故ならダム開発によってより貧困になる村人達がいる。 余りにも多くの樹木が伐採され、自然が消え、山がなくなっていく。村人 達は、お金がなくてもまさに山林から採れる自然の植物などで十分生活 できていた。しかし、日本のODA支援によるダム建設により、その人々 の生活は脅かされる。生活の手段はなくなる。仕事もない。 村人にとっての生活の母胎である自然がなくなることは、ラオスの 国が経済的に豊かになっても、貧困に陥るという逆説に陥る。  貧困とは何か?経済大国の視点から、数字からみていたら話にならない。 数字に還元できない人々の生活。数字上、経済的に貧困でも当人達にしたら 全く貧困とは感じていない。経済大国の人々がお前らは貧困だ、貧困だ と決め付けるから不安がるのだ。ただただ経済的に豊かになり、合理的で 便利な社会になり、世界のどこにいっても同じような生活を営めるような アメリカニズムが幸福とは限らない。個々人が何を幸せと感じるかは それこそ、分からないし、なんとなく分かるとすればコミュニケーションを 通じてしかない。勝手な思い込みで便利を追究しても、それは 間違った選択をしているかもしれない。先進国、先に進んでいる? 何が?経済的に?ただただ経済的に豊かになるのが貧困解消につながる わけではないので、もっとゆっくり進めるべきだ。 何より、ラオスの人々は先進各国からほっといてもらったほうが 幸福につながったのではないか?  何が幸福か自明ではないのは何度も述べているが、何が不幸かも自明で はないため、勝手な幸福感を押し付けないようにするべきだと自分は 感じる。  だからこそ、社会的価値観に照らしてあなたは不幸かもしれない。 しかし、それは小さな小さな日本という価値観に照らして不幸と感じている だけ。何より何が幸福かは自明ではない。それは自分の実存のみ知る 世界です。その時、多くのことを求めず、現状を肯定すれば、幸福で あることを知るかもしれない。
プロフィール

Author:まさみ
ブログはこちら一本でやっていくことにします。

パソコンできる環境が作れず、こちらのブログのほうがスマホでも扱いやすいからです☆

よろしくお願いします。
⊂⌒っ*-ω-)っ

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。