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無知の知

 少しでも真理なるものを追究したことがある人ならば、唯一の真理 などなく、分からない事だけが分かるだけである。子供の頃多くの人が 疑問に思った宇宙創造の前は一体どうなっていたのか?時間はいつ はじまったのか?始まる前は何が?宇宙の外はどうなってるのか? 果てがないということはどういういことなのか?自分は何故ここに いるのか?等々。  真理を追究している学者の本や話を聞いてみると、知識があれだけ あるのだから何でも分かっている様をみせるとは思いきや、いかに この世界が分からないか?ということが誰よりも分かっている。 物事を知れば知るほどいかにこの世界が分からないかを知る。 そもそも人生の正しい生き方など誰にも分からない。 様々な経験をすれば正しい価値観などないことは明らかだ。 何よりも前回も書いた様に高度情報化社会により、何が幸せかは 自明ではない。答えはない。  答えを求めるとしたら新興宗教系の宗教に入れば明確な答えを 返してくれるところも多い。あなたは神に選ばれた人間だ。だから 教義にのっとって神為に生きなさいと。  こう決め付けた瞬間に思考停止に陥り、この世界が自分だけ(達だけ) 分かった気になり、自分の正しいと思う価値観を持っていない人間に 対して見下すようになる。この時点で世界は分からないものだという 謙虚さをなくす。  ただ補足だが、原始キリスト教、仏教は、いかに世界が分からないか しっかり認識していたように著作等を見ると感じる。  それはさておき、分からない分からないで、どうやって生きたら いいのか?ということだが、それも分からないとなる。 自分で試行錯誤して、これだと思うものを自己決定していくしかない。 そこで、1人で全て決めれるかというと特に未成熟期には、こうしたら こうなったという実例を成熟期にある世代が伝え、学び取ることが 必要だ。世の中に答えはないが、こうなったら、こうなったよ、 だからこうしたほうがいいよ!という実例の情報を多数提供し、情報を 享受する事が必要だ。それは自然から学ぶ事もあるでしょう。 様々な経験、感覚、知識から得て、なおかつ自分で試行錯誤して 決定していく。明確な答えを用意するような新興宗教系のような団体に 属さないならそうして生きていくのが自然なものとなる。  答えはないのだから、答えはないという価値観もまた正しいとは言えない という逆説にも陥る。しかし、この逆説がいいのだ。世の中逆説ばかりに 満ちている。生まれること自体逆説。生まれたはいいが、やがては死ぬ。 これが一番の逆説。いくら幸せになったと感じても死ぬ。    この逆説の具体例を今後さらに提供できたら良い素材となると 思うのだが、まだまだまとめられていないので、映画などを 参考にするとよいかもしれない。  この世界が分からないことを受け入れることはある種、恐い事かも しれないが、そこがこの人生で面白いことなのだ。答えがないから こそ、生き甲斐がでるし、自分だけの実存で生きられる。 この感受性があれば、他人に価値観を強制することはなくなるであろう。 しかし、強制ではなく、不透明な時代なので、こういう価値観もあるよ! と情報として示す事も必要だと感じる。  無知の知を徹底している人ほど自分はリスペクトする。そのような 人ほど逆説的に探究心があり、謙虚であるからだ。
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価値を認め合うが・・

 貧しい近代過渡期の時代には豊かになりたいという共通前提の 目標があったため、たとえ犯罪に走る人間がいたとしても理由は 貧しいためと、大概の人が了解できるコミュニケーションが できていた。しかし、高度経済成長を経て、近代成熟社会に なると、豊かになるという共通の前提がなくなり、個々はばらばらに なる。さらに交通機関・情報ツール・各種技術の進歩により、特に ある共同体の中で生きなくても1人で生きれるようになった。 家に1人でいて家族と会話をせずとも、コンビニで食べ物を買えば よいし、他とのコミュニケーンも携帯やインターネットでとれば 事足りる。一昔前のようにご近所さんとも交流し、学校でも 交流し、会社の交流など特に必要なく生きられるようになった。  隣の人は何者ぞ?という言葉が流行ったのはいつのことだか、 遥か昔のことだと思うが、さらに現代はそれが徹底した。  ただ学校だけは依然旧来の体質を残している。たまたま同じ地域で たまたま同じ年齢だけということだけでクラスに集団で閉じ込められ みんな仲良くなど幻想に過ぎないのに、嫌いな人とも無理やりともに 過ごさなくてはならない。嫌いな人ともみんな仲良くできないと 社会で人間関係うまくやっていけないよと。先生はよく言った。 それは逆で嫌いな人とも仲良くするには周りの同調圧力に屈するという ことです。つまりみんなに合わせていなければ生きられない社会なの でした。これは自我が大変未発達な脆弱な人間であることになり、 むしろ社会に出た際生きづらくなる。自分が試行錯誤して自分が 自己決定できる能力が養成されなくなる。  幸い、同調圧力に屈しなくても高度成熟社会になったおかげで、 学校の仲間に属さずともインターネットの世界、クラブ、サークル、 携帯等々いくらでも自分が属しうる世界はあるので、学校で別に 所属できなくてもいくらでも別の所属先はある。  それぞれがそれぞれ、どこで何をやってるのか自明でない 社会になったのだ。対面的コミュニケーションをしないでも 生きれてしまうので、何を考えているのか分からない人間が 増えてもおかしくない。みんなに了解不能な動機の犯罪が 増えてもおかしくない。  ただこれはいい、悪いなどは関係なく、豊かになった社会に なれば当然の事である。情報は洪水のように押し寄せ、みんな で共通できる価値観などないことは火を見るより明らか。 昔のような共同体のムラ社会だけの価値観しか知らなかったものが 全世界の一人一人の価値観を知ることになるときなんと、自分の 共同体の価値観が些細なものであったことに気づく。 共有ができないと気づいた時、一番大事なのは それぞれの価値観を認めあうということである。 価値観の共有感覚を求めて宗教団体に属したり社会運動系の団体に 属する手もあるが、そういう動機ならばいささか時代認識が 甘い気がする。  聖ヨハネ・パウロ?世でさえ、他宗教の共存を示す発言をし始めた時代。 自分の実存でも他人に価値観を強制する時代は終わったと感じる。 何が幸せかは自明ではなくなった為、価値観はそれぞれ個々人に 任せるしかない。だからこそ、自分の価値観を強制せず、 他人の価値観を認める必要がある。これがなかなかできない人が 古い世代の人に多い。  ただ単に認めているだけでは不完全で、自分に迷惑、他者に迷惑 をかけるような価値観を持つものに対しては、許さない姿勢が 大事である。どんな価値観も認めるという言い方は確かに幻想である ので、原則認めるが、他者に迷惑をかける価値観はだめであるという ことである。  自分自身の実存から他者の様々な生き方を認められる人が最も 成熟だと感じています。社会的マイノリティーのゲイ・レズビアン はもとより、新興宗教でさえ認めるべきです。ただ迷惑をかける ようなら断固反抗するべきですが。  こういう時代の特性理解して試行錯誤して同調圧力に負けない 自分の価値観を創造して欲しいと思っています。それには人の 意見、自然から受ける影響も存分に発揮して。。

偶然と必然の共生

 何度も強調したい事が特にこの世界は偶発性に満ちているという事 である。偶然人間として生を受け、偶然この時代に生まれ、偶然この 親に生まれ、偶然対人恐怖症を幼少から患い、偶然幼なじみと出会い、 偶然いじめに遭い、偶然小中高と不登校したくともせずに卒業し、 偶然催眠療法を受け、偶然仏教系の宗教に入り、偶然統一協会 に出会い洗脳され、偶然洗脳を解除するプロカウンセラーに出会い、 偶然某社に入社し、偶然辞めてフリーター生活をし、偶然キリスト教に 入信し、偶然インターネットが普及していた時代のおかげで素晴らしい 人に出会えた。そして偶然キリスト教をやめ・・・  何でもかんでも偶然偶然と言うと、全て流されている、生きている意志 など何も感じれないととられる向きはあるかもしれない。 そうではなく、偶然とはもしかしたら、そうではない選択肢もありえた かもしれないということだ。特に自分がこの時代に生まれる必然性は ない。何かのきっかけで原始時代に生まれていたとも限らない。 そもそも自分とは何か?自分はあなたで生まれてきても不思議では なかったのか?北朝鮮で今飢えに苦しんでいる人、イラクでテロに 脅えている人が自分ではなく、何故他人なのか?これは偶然です。 そういう世界に生まれてもおかしくはなかった。 自分は何故自分で、何故自分があなたではないのか? これを特に強調したい。 つきつめていくと何故今自分がここに存在しているのか、ものすごい 偶然が重なって存在している。そこに畏敬の念を感じるが、 それとともに他にありえたかもしれぬ自分の人生ではなく、今ある 人生を生きている自分がいる。 それは偶然という中にも自らの意志で決定しているととらえる 事もできる。偶然性に満ちた世界を知った上で、自分の意志で何かを 選ぶ。それさえも偶然性によって選ばされていると感じる人も 少なくはない。この世には偶然はない。全ては因果応報の・・うんぬん と宗教家は言うだろうが、それはそれ。これはこれ。 偶然もあり、自分の意志で選ぶ人生もある。 混沌とするだけだが、偶然と必然は共生可能。 どちらか一方にこだわると生きにくくなる。 偶然性に満ちつつ必然もあると感じるこの感覚は共生していく 上で最も大事な事だと思われる。

郵便的コミュニケーション

 自分は浅学非才なので、全く難解すぎる事は理解できないのだが、 デリダのいう『郵便空間』という思想に興味を持った。 といっても少し読んだ程度なので、デリダのいう解釈とは全く 違ったものになるだろうし、自分が感じた独自の解釈を少し 述べてみたいと思います。  今のご時世、郵政三事業の民営化ということが叫ばれたりも しています。民営化を阻む理由は既得権益を手放したくないという 輩が腐るほどいるからです。既得権益とは別に主婦などの意見を 聞くと国ではなく民間に任せると通信の秘密が侵されるのではない かと非常に危惧する。国だから安心。。分からなくもないが、 国は近代社会では市民の敵です。ホッブス流にいえば、国家とは 無敵のリヴァイサンなる怪物です。放置しておけば大変な事に なる国家であるため、それを縛るために憲法があります。 日本では国家の暴走は戦前の軍部の独裁の一度の経験はありますが、 今や忘却されてきているのか、特高の恐ろしさを忘れたのか、 妙に国家に媚びる,甘える人たちが増えています。  話はそれましたが、国がやるにしろ、民間がやるにしろ、郵便は 必ずしも誤配もなく完全に運営できるとは限りません。  郵便はまさに会話のコミュニケーションになぞらえます。 手紙は多くの場合相手に普通に届く。会話のコミュニケーションも 大概が届くには届く。しかし、郵便のようにいくらこちらが手紙を 送っても、相手は見るか分からない。見てもいつ見るか分からない。 読んでも理解してくれるか分からない。手紙を出した側はちゃんと 届いているのか、いつ届くのか、いつ読むのか、そういう不安の 時間を抱えます。  さらに手紙は誤配されることもあります。全く違う人に送られる。 見ず知らずの人から来た手紙をみた人は真摯に本来の相手先に送る かもしれないし、盗みみして楽しむかもしれない。さらにその手紙が きっかけで新しい知識を得たり、ましてや誤配の本当のあて先の人と の出会いが偶然あるかもしれない。  また、誤配されればめぐりめぐってやがて本人に届く。 到達する時間はかなり遅くなる。遅くてその手紙はもう用済みと なっているかもしれない。遅い事で、それなりの味わいがあるの かもしれない。  会話のコミュニケーションも一緒です。 必ずしも相手に言葉は伝わらない。他のことに夢中で耳に入っていない のかもしれない。電車などでその人に話しているつもりが、周りの みずしらずの人に会話が聞こえ、その人に莫大な影響を与えている かもしれない。言い間違えたことによってかえって、分かりあえること もあるかもしれない。  コミュニケーションはもちろん相手に完全に自分の思っていることが 伝わらないものです。言い間違いや間違って伝わることがコミュニケー ションです。思い通りに伝わらないので、ある種偶発性によるところが 多いです。そこに緊張感がありコミュニケーションの躍動性と醍醐味が あります。  論理的なコミュニケーションでさえ、誤解のあらしです。 しかし、そういう誤解の中に新しい発見が見出されていきます。 完全な会話などというものを思い描いている人がいるとしたら 新しい発見というものができないのではないかと思われます。  論理的にしゃべろうとすることさえ、非論理的な動機からですが、 論理的なコミュニケーションもできておくとコミュニケーションの 幅は広がるでしょうね。自分にはその論理思考センスが全く皆無 ですが・・・
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