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人に合わせないコミュニケーション

 自分自身は他の人と雑談ができない、人前でしゃべれないという 話下手であるということに悩み続けた経験も大きいのだが、それは 自分がだめであるからという短絡的な理由からではない。 悩んでいる時は自分を責めがちであるが、そもそも何故人とうまく しゃべらなければいけないのか?みんな仲良くしなければだめだよ! という日本の社会的な価値観に自分がこだわってきただけであったの である。    人とうまくしゃべらなければいけないのか?というそもそもの疑問 を投げかける事がこの悩みを解決する鍵であった。 しゃべらなければ、人生終わりだと恐怖に震え、話し方教室に何度も 通ったのが今では苦しさと懐かしさを覚える。  日本民族は同民族で他国からの侵入もなく、特に明確に言葉で伝えあう よりも空気で分かりあってきた民族である。その場の空気、ノリで コミュニケーションを取ってきたので、論理的にしゃべる事は してきていない。そのため、仲間内だけで通じるコミュニケーション さえとっていればよいのである。  明治維新以来急速な近代化によって、ノリではなく、法に則った 論理的なコミュニケーションが求められるようになった。近代社会では 同質な人ばかりではなく、異質な人々とでも関わらなければならなく なったので、共通の前提、空気、ノリだけでは、コミュニケーションが 取れなくなった。交通機関の発達、身分制度の崩壊、マスコミの発達 によって、同じ村、地域の人たちとコミュニケーションをとっていれば いいというものではなくなったからだ。  その場の空気、ノリではないコミュニケーションの方が自分は 合っていた。その場のノリに合わせたコミュニケーションをしようと 思って苦しんできたのだ。人に合わせてしゃべるのは今の時代むしろ 時代に逆行しているといえる。これだけ高度情報化社会になれば ありとあらゆる価値観にふれることができ、みんなが同じ価値観、同じ ノリであることはありえず、人に合わせることは、無駄である とともに、虚しいことである。 それよりもみんなが同じノリではないことをしっかり見据えて コミュニケーションを取ることが近代社会のあり方です。 人に合わせることに慣れすぎた日本人は難しく、失礼と感じる方も いるかもしれませんが、むしろ人に合わせず、それぞれ異質な価値観を 持ってること前提でコミュニケーションをとることが近代社会では 礼儀です。  そのようなコミュニケーションをとっていく中で人に合わせるという 強迫的な観念の中にいた頃には見出せなかった自分に合ったコミュニケ ーションできる場や人と出会い選択できるでしょう。  学校的コミュニケーション、日本的コミュニケーションにこだわらな ければ、その他の無数に広がるコミュニケーションの場があります。  悩んでいる事があるとき、そもそもそれは悩む必要があるのか? と問う事は非常に大事であると思います。 それは、たまたま社会の価値観に合わせようとして、みんなに 合わせようとして悩んでいるだけじゃありませんか?
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グット・ウィル・ハンティング

 映画『グット・ウィル・ハンティング』を観た事がありますか? アカデミー賞を受賞した作品でもあるので、知っている方も多いと 思います。  主人公のウィルは知能指数はずばぬけて高いのだが、心はすさんでいた。 映画の中でウィルはこう彼のカウンセラーに指摘された。 『君は自分以外の知識、例えば画家のモネならモネについてなら いくらでもしゃべれる。しかし、自分の事となると全くしゃべれない。 簡単な質問にも答えられない。君は今何がしたいんだ?というような 簡単な答えも・・』  自分はこの映画を観たときこの部分のウィルに特に共感した。 彼は小さい頃虐待を受けていたため、無条件に自分が悪いから、自分が ダメな人間だから虐待されたんだと心の傷を負っていた。 そんな彼は自分の事を話すのが恐いのだ。  自分自身は虐待を受けたという経験はないのだが、何故だか知らないが、 小さい頃から自分はダメな人間。自分は人よりひどく劣った人間だと 思っていた。だから少しでも人と同等になるために背伸びして生きた。  そういう自己だとウィルのように自分のことを話すのが怖い。 何故か?自分ごときの話を人にするのは他の人に対して申し訳なさすぎる 気がするのだ。だめな自分の話をするぐらいなら他の人の事や自分以外の 出来事を話したほうがいいと・・・。  さて、そんなウィルはカウンセラーから『君は何も悪くない』と 何度も何度も繰り返し繰り返し言われて号泣するシーンがあるが、 ここはひどく真理をついていると思う。  虐待されたのは無論、親の身勝手。ウィルは悪くなかった。 自分に自信のない人は無条件に自分の事を悪いと思いすぎです。 極端になりすぎると弊害がでますが、基本的にどんなに悪い事を したとしても『君は何も悪くない』という余地はあります。 盗みを働いたとしてもたまたまこういう貧困な社会に生まれたから たまたますさんだ家庭に生まれ育ったから。たまたま盗まなければ 生きていけない状況にあったからなどなど。  考えようによっては偶然に偶然が重なってるに過ぎないのが 人の道と思える。だめな自分に生まれた。それって自分が悪いので はなく、たまたまそうなっただけ。だめという評価もたまたまその社会で はだめとされているだけで別の社会では良しと評価される場合もある。 たまたまたまたま。  まず、この世界は不条理な偶発性で満ちている事を知り、カタルシスの ようなものを得ておくと楽になれます。  不条理で偶発性に満ちたこの世界を受け入れて、初めて、無駄に 自分を責めるのをやめてこの世界で生きていけるようになります。 何をしてもたまたまなのだからと、投げやりにもなれますが、 不条理を受け入れたからこそ、逆説的に自分の意志で生きてみるのでも いいのではないか?楽しいのではないかと思えるようになる。 そういう意志を持ったのもたまたまといえますが、それを知った 上で意志を持つ。この不思議なダイナミズムが楽しい。 この世界は分からない事がありすぎです。 それをしっかり認識しつつ自分なりに生きてみる。 それでいいと思います。そこにはわからないながらも自分なりの 世界像があるのだと思います。

年齢にとらわれない

 年齢にとらわれる事は苦しみの中でも上位に入ってしまう事だと 思う。今でいうと1?歳で童貞・処女を喪失してなければ、自分は おかしいと感じ焦ったり、25歳にもなるのに定職につけず、アルバイト をしているだけの状態であると、一般的な社会人として認められず、 社会の落伍者と感じて、非常に苦悩する。25歳でなく、30歳に なっても、40歳になっても、いやいや一生涯フリーターで終わる事に 非常に恐怖感を覚える人も少なくないのではないか?    人間に生まれたからには定職を持ち、経済力を得た上で、結婚し、 子供を育て、幸せな家庭を築く。これをしないと何故か人間では ないかのような強迫観念を伴う人も多いと思う。  もう25なのに、もう30なのに、今の俺は何やってるんだ・・ この種の責め方は苦しみを増やす以外何物でもない。 よくいうように社会の年齢というレールに乗って生きる以外 生き方が見えていない。  フィクションに過ぎない何歳には何をしてなければいけないという 観念は特に現代の成熟社会では諸悪の根源。 どこかの小さい村で村の決まりで何歳に何をして、何歳には何をして、 と決まっている非常に閉鎖的な社会ではそれが当たり前のように 通用した時代もあった。そういう時代では年齢にとらわれるのも 悪くない。  ただ現代は高度情報社会で全世界のあらゆる情報が入ってきて しまうので、年齢というものにとらわれる必要がなくなってきている。 原住民族の中には自分の歳を知らない方々も多数いらっしゃる。 日本人はよく歳を覚えていますよね。ある歳から歳を取るのが 恐いと言い出しますね。歳意識しすぎでしょう。 歳にとらわれると自分のやりたい事ができなくなります。  色々述べましたが、歳にとらわれない事が何故苦しみから解放されるのか というと、それは死があるからです。どんなに長期的なプランを立てて 何歳で就職して何歳で結婚して何歳で昇進して何歳で子供つくって、 何歳で・・とやっても死は突然訪れます。 いつ死んでもいいように今本当に自分が望む生き方をするのが 大切です。年齢などにとらわれずに。  これは投げやりな考えではありません。非常に現実的な考えです。 もちろん将来設計なるものは大切です。ですが、それより遥かに 大切なのは今です。 人間いつ死ぬか分からない。これほど現実的なことはなく、今やりたい ことをやれというのも甘えではなく、現実的な事です。  今やりたいことは刹那主義にならない場合もあります。今やらなけ れば地球の環境悪化はさけられません。そのために、今環境保全を 子々孫々のためにやるという考えすら生まれます。 年齢にとらわれない生活を今することで他の人の模範になり、 将来にわたってさらに楽になる人が増えていくということもあります。  何が大事か、何が不要か、死を基軸に据えると徐々に見えてきます。

不自由さを認識

 自由に生きたい。対人恐怖のため、この世界で生きる事に不自由さを 強烈に感じていた自分は小学校の卒業文集で自由を求めています。  日本はメンタリティ的には全く未成熟ですが、自由主義が根底に ある民主主義の体裁だけは整えています。個人、個人は自由に振舞って もいいが、ある他人に迷惑をかける行為は制限される。 自由といっても不自由を前提にした自由です。  自由を徹底させれば自由主義をなくす自由という自由もあるわけです。 不自由な世界を望む自由もある。  自由というもの思えば不思議なもので、携帯電話がなかった頃、 携帯電話がないことで不自由だとは感じなかった。そんなものの存在 すら認識しようがないので、不自由とかそういう観点では思わなかった。 もちろん遠隔の人にすぐに連絡取れたら楽だなあっと思うことは しばしばあったでしょう。しかし、その当時携帯電話というものは 存在していなく、誰も持っていないため、不自由とか自由とかいう 比較対象ができないのである。  例えればドラエモンの世界。タイムマシンがあればいいなあっとは 思う人も多いと思うが、実際にそんなのできるはずがない。 (遠い将来もしかしたらできるかもしれないが、現代から考えると ありえない。)だからこそ、過去や未来にいけなくても、それが 自明の理だと受け入れているから、不自由というものとは異なる。  当たり前の事だと思えれば不自由さは感じにくいということだ。 ウルルンでやってるような原住民の人は携帯電話がなくても 不自由さは感じにくいというようなことだ。 しかし、そのような原住民の人でも1度携帯電話の利便性を知って しまうと、持っていない時不自由さを感じてしまう。  情報化社会で世界のあらゆる情報が入る。政治・経済・性愛・文化・ 宗教等々。知れば知るほど自分にはないものの存在を認知してしまい 不自由さを感じる頻度が増える。  情報化社会は不自由を感じやすい社会ですね。 そういう社会では不自由なものが無数にあるのは当たり前だと 受け入れ、無数にある選択肢の中から自分が自己決定するのが よいと思われる。  不自由を受け入れると自由になる。自由を受け入れると不自由になる。 不思議なもので、不自由さを知る事が自由への道といえるかもしれ ません。対人恐怖という不自由さを十分堪能した自分はそこから少しでも 解放されるだけで自由を感じれます。  当たり前ですが、不自由なければ自由はなしなんですが。

現状に甘んじる

 本当の自分を探す系の本やセミナーが出回っているが、本当の自分を 探している時点で今の自分を否定的な存在として認知している事になる。 自分自身も特に18歳頃、本当の自分を探す系の本にはまった。 今の人と会話もできず、ひどい緊張に苦しめらている自分は本当の自分で はないと思う事で救われる気はしたのだ。潜在能力を引き出すような 催眠療法や自己啓発系の速聴やセミナーにもはまった。 あのような産業は需要が多いらしく多額の費用がかかることに さえなりました。  しかし、費用が多額にかかるが故に、徐々にこのようなものから 離れていった。結果、本当の自分を探すって今の自分を否定する事なんだ ということが分かった。本当の自分を探している時、否定された今の 自分はひいひい泣いている。紛れもなく、ここではないどこかに存在 している自分が自分ではなく、今ここにいる自分が自分なのであるから。 どんなに人より劣っている部分があっても自分は自分。 無理せず、背伸びしなければ、無理しないひいひい泣かない素直な 自分がいます。それを受け入れられると本当に生きるのが楽になる。  悩み苦しんで生きることが自らの信念とするならば、しかたないですが、 楽に生きたいのであれば、本当の自分を探すのはやめて、現状に甘んじる というか、今のままの自分で生きた方が楽です。変わる努力をしなくても 生きていくのですから、この上なく、楽です。 ですが、その時変わる努力をしなくても人は変化するのは当たり前で それもまた、人生の面白みだと気づく。  十分苦しんできた人に特に言いたいです。現状に甘んじて欲しい。

信念→信念崩壊→自然な状態→新たな信念

 重い悩みを抱えて来た人は人並みならぬ信念を持っていると感じます。 この悩みを解決できなければ自分の人生は終わっており、解決できて 始めてようやく自分の人生のが始まるというような思いがある。  そのある特定の悩みがある限り、生きていても無意味だと思う。 その解決できる日を信じてなんとか生きていく。  このような状態は思春期的な信念でしょうか。  だが、生きていく中で壁に何度もぶち当たり、試行錯誤を繰り返す 中で、そのある特定の悩みだけにこだわるのだけが人生ではないこと が分かる。具体例をあげるならば、自分の場合は対人恐怖症を治す 事だけが生きる目標ではないということだ。 たとえ、対人恐怖が治らずとも、人生は始まっており、楽しみも いくらでも転がっている。  ここではない、どこかに夢想するより、今目の前でも十分生きる 楽しみは転がっている。  だが、特定の悩みがなくなった途端、なんだか信念もなくなり、 人間誰でも悩みはあるし、結局同じ。同じなら、信念なく、ただただ 漠然と生きていればよいという心境に陥る。 この心境は悪い状態ではないと自分は思う。 それで人生終えるのもまた良いと思う。  ただ信念→信念崩壊→自然な状態→新たな信念と辿る事もまた 味わいがあると思う。  ただただ思考停止的に思い続けてきた信念よりも、1度白紙にして、 自分がこれ!と思う信念を選択し、そして創設する。 この信念は試行錯誤を経て得た信念なので、今までの盲目的な 信念とは趣を異にしている。  信念といっても固い志のようなものを指すイメージはあるが、 自分の信念は唯一の真理は全てには死があるという事以外、 唯一の真理などないということだ。だからこそ、人それぞれの 生き方は頭では認める。ただ認めはすれども、自分の生き方を侵害 するものや威嚇をするもの、嫌いな人などなどに対しては攻撃的な 態度は見せる。どんな生き方も認めるというのは柔和であると同時に 非常に攻撃的な面がある。この攻撃性を認識することは特に 忘れてはならない信念であると自分は自覚している。自覚しているからこそ、 他人の生き方を非難するのは極力避け、他人ではなく、自分の中で 人生を満足させることが大事だと思っている。もちろん生きる上で自分に とって大事な人を受け入れる事も大事な場合もあります。
プロフィール

Author:まさみ
ブログはこちら一本でやっていくことにします。

パソコンできる環境が作れず、こちらのブログのほうがスマホでも扱いやすいからです☆

よろしくお願いします。
⊂⌒っ*-ω-)っ

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