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超常現象と超常体験

 心理学者のユングは超常現象と超常体験を区別した。超常現象が 存在する、しない、は横に置いておいて、超常体験は存在するとした。 ユングの有名なシンクロニシティ(共時性)という概念は多くの人が 体験しているのではないでしょうか?簡単明瞭に言ってしまえば、 偶然の一致ってやつ。なんとなく、あの人に久々に連絡取りたいな と思ったら、ちょうどその人から電話かかってきたり。 些細な事を挙げればキリがないと思いますが、偶然こういうことが あって、びっくりしたという体験はよく起きているのではないで しょうか?超常現象を信じていなくとも、超常体験は主観的な ものなので、体験した人があると言えば、あるし、ないと言えばない。 宙に浮いたり、テレパシーを感じたり、それも主観的には存在する。 宙に浮く事が物理的になかったとしても、主観的に体験すれば、人は 存在すると感じる。  超常現象の存在の可否はどうでもよく、体験自体はどうにでも できるとすれば、免疫がない場合、簡単に新新宗教系の勧誘に はまってしまう危険性がある。ある種のノウハウを使用し、超常体験 を感じさせるプロセスを与えれば、免疫のない人は超常体験にしか 過ぎないものを超常現象と信じ込み、その宗教にどっぷりはまり 込んでしまう。免疫がなく、たまたま人生系に関心がある人に ノウハウを駆使し、超常体験を次々に体験させる事は、それはすなわち どの宗教、どの自己啓発、どのオカルトに接するか、まさに シンクロにシティ。偶発的に過ぎない。偶然が重なればオウム真理教に 入信してしまってもおかしくない。  世の摂理は人智を超える。不思議な事はいくらでも起きている。 だが、超常体験はその人の体験に過ぎなく、実際に現象として存在 するかどうかはどうでもよいこと。その人の解釈により、その体験は 変わるだけである。解釈いかんだ。超常現象ととらえる人もいるし、 たまたまで気にしない人もいるし、不思議な事はあるが、あくまで 自覚的に現象とはせず、体験に留めて置くのも1つの知恵と言える かもしれない。  さらに言ってしまえば、超常体験は時代時代によって違う。 社会が複雑になり、社会システムが要求する価値観が求められる ようになると、以前日常的だったものが、現代の社会システムだと おかしな人というレッテルを貼られてしまう。この辺りは面白い ところなので、深入りせず、また機会を改めたいと思います。
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コピペ思想

 例えば今時の大学生はグーグル等の検索エンジンで適当なレポート に対するテーマに関わるキーワードで検索して、それを提出する 事が珍しい事ではないそうだ。大学教授の側からは何故みんな 似たり寄ったりなのかも、理由は分かっている先生が多いだろう。 自分の大学時代もマイナーな文献を見つけてきて書き写しという 事もあって、いつの時代も変らないなあと思いつつ、今であると、 手で書き写しどころか、『コピペ』で、ワード等のパソコンで印字 されたレポートを提出する事が多いそうです。もちろんコピペでは なく、自分で色々調べて、レポート書く有志は沢山いることは今も 昔も変らない事だと思いますが。ただ、そういう有志の人でさえ、 便利故に、検索エンジンに頼り、様々な順位付けがあるが、グーグル ではある人気投票に基づいて上位で検索される。グーグルの検索表示には 様々な判断基準があり、不透明であるが。つまり例えば自分のような 素人がパターナリズムという学術用語をテーマにした文章を書いた 場合、それがたまたま検索でヒットして、それがもっともらしい解釈と 思ってしまう危険性があるのが怖いという事です。情報源は自分は書籍、 ネット等ですが、自分の出不精故にそれを明示していない故、自分でも 自覚していないのはコピペ思想の危惧しているところです。  自分だけの思想といっても、それは様々な人の思想や言論から影響 を受けており、自分の思想というものさえないのではないか?という のはアカデミズムでは散々議論してきたことらしい←(こういうとこ ろがまずい)ですが、深くつきつめていけば論理的には様々な相関関係 の中で自分の思想があるに過ぎないと言えることはできますが、一応 そういうものを自覚した上で、自分固有の考えはあるとしたほうが、 近代社会では有効かつ、個人的にある感じがする。自分だけの固有の 体験を持っているが故に。  ただ自分だけの体験を基にネット上で語っていくというのは自分は 滑稽だと感じ、なるべく客観的にするために、引用コピペをしたいの だが、その情報源が当てになるかどうか。  何かを当てにするというのを完全否定しすぎるのはよくないと は思っています。当てにするのが悪い?だったら勝手に俺達はばらばらに 適当にやってやるぜ!っとなってしまうからです。 また、ここでバランスが大事と言うしかなくなります。 厳しいな。このコラムも。

パターナリズム

「パターナリズム(英:paternalism、家父長主義原理)とは、国家が 個人の自由ないし権利に対し、介入ないし侵害することを正当化する 原理のひとつである。」  宮台氏はこの原理が明治近代化以降に一般市民にもはびこっており、 現在も衰える事はないと指摘する。もともとは国家が親の 立場で市民(青少年)の自由を制限し、保護する理由で用いられた 概念であったが、近代化の際にこの概念も日本に輸入されたのか? この辺はさらに調べなければいけないので、今度調べておきます。  一般市民にはびこっているというのは、恋人関係が一番分かりやすい かな。お前の為に俺はこれだけしてやっているのに、どうして お前はそんなに冷たいんだ!?というパターナリズム、恩情主義とも 訳せる。おいおい、冷たいのは私の為になってないからでしょう! って事になる。だが、違うんだ、お前が死ぬ時きっとお前は俺が してあげていることが良き事だと分かってくれるはずだ!みたいな。 これじゃ死ぬまで分からないじゃんって話。親子関係も親が子に対して この種のパターナリズムのおしつけは多い。  パターナリズムから抜け出すのは難しいので、本当にその人の 為になることをしてあげることができればパターナリズムでありながら パターナリズムから脱する事ができるように思える。 恩着せがましく俺がこんだけしてやっているのに・・・ ってそのしてあげてることってただの自己満足でしょう?から反省し、 俺が相手を離してあげることが相手の為にもなる事も勘定に入れる 視野が狭い。そしてこんだけしてやってんのに・・・の裏には すごい見返り求めている。それもちゃんと事実認識すると。  自己愛が強い事を認識していない人ほど他人の為に尽くそうとする 傾向がある気がしています。自己愛は皆強いですよ。それを自覚 しているか、していないかの違いだと思っています。 自覚すると本当に自分の事しか考えれない生き物なんだな、 人間って・・・っとなり、逆に冷静さが浮上し、自己愛の事忘れて 相手の為になる事冷静に考えれたりする。時たま忘れるだけで 自己愛自体は一生なくならないと思うし、あるのが当然。 自覚しているか?していないか?  宮台氏の言うパターナリズムについては言葉の意味内容だけ 教わって後は深く理解していないので、このコラムはほとんど 自分勝手な持論です。

価値相対主義

 ポストモダンの社会において価値相対主義が蔓延している。 自分の立場も右よりのリベラリズムなので、価値相対主義に 飲み込まれる。価値観は人それぞれだからそういう考えも いいんじゃない?別に真理は1つじゃないんだし・・・ 自分の価値観も真理だと思ってないけどそんなの当たり前で、 いいじゃん、人それぞれでさ。リベラリズムの立場ならば、 人に迷惑かけていない限り、その人の価値観の中で何をやっても いいことになる。あくまで迷惑をかけない限りでね。 だが、ここにリベラリズムの価値相対主義の欠点が現れる。 リベラルな社会ばかりではないのだから、真理は1つという 社会あるいは人もおり、彼らに対してもリベラルな価値押し付け が底にある。あくまで相対主義なのだが、相対主義を貫徹させるには 相対主義を皆が持っていなければいけないという絶対主義という 逆説が生じる。  イスラム教徒のような真理は1つと非常に分かりやすく掲げている 共同体とリベラルな価値相対主義という逆説的な真理はどこかで 対立せざるを得ない。人に迷惑をかけない限り・・・という条件付 なので、迷惑をかけるのならつぶすという恐ろしいものに価値相対主義 は変動しうる。価値相対主義の根っこには他者に対する無関心さだと 思っています。価値は人それぞれだから俺はこういう生き方だし、 お前は俺と違うけどそれでいいんじゃない?というある種の無関心さ。 価値相対主義が蔓延すればするほど他者に対する無関心さは増していく。 無関心であるが故に、いざ自分に危害を加えるものがいるならば、 簡単に圧制を下す。恐ろしいほどの無関心さですよ。深刻的な。  自分ごときが述べれるような問題ではないほど大きな問題なので、 書くことも憚れるが、書いていかないと、始まらないし、 アカルイミライも生まれないから。相対主義もリベラルもある ある物語にのっとっている観念的なものに過ぎない。 人と人とのぶつかりは観念だけではなく、物理的な距離の取り方や 単に生活空間を共にするというリアルがある。真理は1つとか 言っている奴がいるとむかっとするが、自分も価値相対主義という 名の絶対主義に陥っているとすると首をかしげる。おいおい、 結局五十歩百歩だったのかって。 で、面倒だから無知の知で考えるのをやめってことでみたいな ノリになる。  だが、価値観は人それぞれかもしれないが、自分の実存で こう思う!と言っていって欲しいと思っているんですね。 そこでコミュニケーションも生まれるし。もしくは隠して 自分だけの実存は密かにもっていて欲しいと思うんです。 なんでもかんでも相対的に考えるのも、なんかはぐらからされている 気がして。小泉首相の「人生いろいろ、会社もいろいろ」みたいな(笑  この問題についてかくと混乱する。自分はこう思う。と一人称 で発言して欲しいんですね。だめだ。これも価値相対主義?(笑) まぁ〜いぃ、基本的に自分は楽観主義なので、スタイル的には 自分にとって楽な生き方を選んで欲しいっとしか言えなくなっちゃい ました(笑)

悩みと気分

 気分はころころ変わるもので、気分障害という言葉も創造された ようにころころ変わる事自体で悩む場合もあるが、基本的な スタンスとして悩みと気分は自分は分けて考えています。 気分的にもう俺の人生もうだめだ!と気分的になっている人に 対し、色々カウンセリングまがいみたいな事をやるよりも、 お前の人生だめなのは分かったけど、とりあえず、焼肉でも 喰いに行かない?っと気分転換させた方が効果的だ。 焼肉喰っている間に、人生もうだめだ!っとなってたの 忘れてたりして・・・(笑)  気分はコントロールするのはできないので、そこは不自由さを 感じるかもしれない。でも気分はなるままに任せるしかない。 だけど皆さんがよく言う気分転換すると本当にコントロール しているつもりじゃないが前の気分など忘れている事が多い。 心、コロコロか。この気分だけに注目して右往左往にするのは すごくもったいない。コントロールできない気分であるが、 確実にぽんぽん変わっていく。ただ厳密に言えば薬等によって、 人為的に気分は変える事はできる。だが、それも自然と 別のサイクルで気分は回っていく。  気分的な悩みが増えていると感じる昨今。あれこれ言葉を 発するより、焼肉屋でも行こうぜ!が有効な気がします。
プロフィール

まさみ

Author:まさみ
ブログはこちら一本でやっていくことにします。

パソコンできる環境が作れず、こちらのブログのほうがスマホでも扱いやすいからです☆

よろしくお願いします。
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